源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第二章 近江君の物語

第六段 女御の返事

【現代語訳】

 大輔の君というのが持参して、開いて御覧に入れる。女御が、苦笑してお置きになったのを、中納言の君という者が、お近くにいて横目でちらちらと見た。
「たいそうしゃれたお手紙のようでございますね」と、見たそうにしているので、
「草仮名の文字は、読めないからかしら、歌の意味が続かないように見えます」とおっしゃって、お下しになった。
「お返事は、これと同じようにことごとしく書かなかったら、なっていないと軽蔑されましょう。ついでにあなたがお書きなさい」と、お任せになる。そう露骨に現しはしないが、若い女房たちは、何ともおかしくて、皆笑ってしまった。使いがお返事を催促するので、
「風流な引歌ばかり使ってございますので、お返事が難しゅうございます。代筆めいては、お気の毒でしょう」と言って、まるで、女御のご筆跡のように書く。
「お近くにいらっしゃるのにその甲斐なく、お目にかかれないのは、恨めしく存じられまして、
  常陸なる駿河の海の須磨の浦に波立ち出でよ筥崎の松

(常陸にある駿河の海の須磨の浦にお出かけくだい、箱崎の松が待っています)」
 と書いて、読んでお聞かせす申すと、
「まあ、困りますわ。ほんとうにわたしが書いたのだと言ったらどうしましょう」と、迷惑そうに思っていらっしゃったが、
「それは聞く人がお分かりでございましょう」と言って、紙に包んで使いにやった。
 御方が見て、
「いいお歌だこと。待っているとおっしゃっているわ」と言って、たいそう甘ったるい薫物の香を、何度も何度も着物に焚きしめていらっしゃる。紅というものを、たいそう赤く付けて、髪を梳いて化粧なさったのは、それなりに派手で愛嬌があった。ご対面の時、さぞ出過ぎたこともあったであろう。

 

《さすがに女御です。大変な手紙なのですが、決して笑ったり変に批評したりしません。悠揚迫らず、「草仮名の文字は、読めないからかしら、歌の意味が続かないように見えます」と、おかしなふうに読めるのは、自分の素養がないからだろうということにして、侍女の中納言に渡します。

受け取った中納言が見ているところに、まわりから女房たちが覗いたのでしょうか、こちらは堪えきれずに笑ってしまいました。しかし、「そう露骨に現しはしない」という心得は守ります。何と言っても、相手は内大臣の御娘であり、女御の妹なのですから。

さて、この返事は、なかなか微妙で難しい課題です。どこまで調子を合わせ、どこまで崩さないか…。

しかし結果はずいぶん派手に、これ見よがしに調子を合わせたものになりました。とうとう地名はバラバラの四つになりました。

こんな歌が女御の歌だと世に広まったらどうしよう、と女御は笑います。しかし中納言は、あの姫君はともかく、普通の人は女御の歌だと聞いても、何かの間違いだと気がつくと押しきって、使いの「樋洗童」に渡します。

姫君は、「御方」と呼ばれます。女御から手紙を頂いて格が上がりました。「いいお歌だこと」と、まことに素直です。それにしても、歌が「おいで下さい」という意味だと理解できたのは立派です。

そして入念なお化粧をして、お出かけになりました。何事か、ドタバタ喜劇のようなことが起こるに違いありません。

『評釈』が言います。「読者は思い起こすであろう。玉鬘と源氏の対面を。…それからまた、玉鬘と明石の姫君の対面を(初音の巻第三章第一段)。紫の上の挨拶もあった。それができると源氏が見極めたからのことである」。しかし、こちらの内大臣は放り出すようにして行かせるのです。

玉鬘と近江の君を対照的に並べて、作者は、物語に起伏を作ろうとしているわけです。

何か起こりそうな所で一旦巻を閉じるのはこの物語の常套手段ですが、ここでも次に気を持たせる、うまいやり方です。》


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第五段 近江君の手紙

【現代語訳】

「ところで、女御様に参上せよとおっしゃったのを、私がしぶるようなふうでは、お気を悪くなさるでしょう。夜になったら参上しましょう。大臣の君が、世界一大切に思ってくださっても、この方々が冷たくなさったら、お邸の中には居られましょうか」とおっしゃる。ご声望のほどは、たいそう軽いことであるよ。
 さっそくお手紙を差し上げなさる。
「『葦垣の間近』な所においていただいておりますのに、今まで『影踏むばかり』お近づき申し上げることもできませんのは、『勿来の関』をお据え遊ばしたことやらと、悲しゅうございます。『知らねども武蔵野といへば(お血筋だと申し上げるのは)』恐れ多うございますけれども、あなかしこやあなかしこ」と、踊り字を多く混ぜて書いて、その裏には、
「ほんに、今宵お伺いいたそうかと思い立ちましたのは、『厭ふにはゆる(きらわれると、いっそう思いが募る)』とでも申しましょうか。まあまあ乱筆は『水無瀬川(大目に見ていただくこと)』で」とあって、また端の方に、このように、
「 草若み常陸の浦のいかが崎いかであひ見む田子の浦なみ

(未熟者ですが、いかがでしょうかと、何とかしてお目にかかりとうございます)
 『大川水の(並一通りの思いではございません)』」と、青い色紙一重ねに、たいそう草仮名がちの、角張った筆跡で、誰の書風を継ぐとも分からない、ふらふらした書き方も下長で、むやみに気取っているようである。行の具合は、端に行くほど曲がって来て、倒れそうに見えるのを、にっこりしながら見て、それでもたいそう細く小さく巻き結んで、撫子の花に付けたのだった。

樋洗童は、たいそうもの馴れた態度できれいな子で、新参者なのであった。女御の御方の台盤所に寄って、
「これを差し上げてください」と言う。下仕えが顔を知っていて、
「北の対に仕えている童だわ」と言って、お手紙を受け取る。

 

《姫はさっそく女御の元にお邪魔することにします。「ご姉妹の方々が冷たくなさったら、…」は、自分の立場をよく承知しているとも言えますが、「姫」という立ち位置ではないように感じられて、作者は、「たいそう軽いこと」と、からかいます。

さて、手紙ですが、この部分の訳文は全て『谷崎』から引きました(引用のあとの補足は私流です)。姫の手紙の異様さがよく分かるからです。

本人は精一杯の素養をつぎ込んで、きわめて流麗な文を書いたつもりですが、これでもかというほどに、枕詞や引き歌といった飾りがあまりに多すぎて、まるで駄洒落の文章のようになってしまいました。

「踊り字を多く混ぜて書いて(原文・点がちにて)」は、「点は語句の反復を示す『ゝ』である。『あなかしこやあなかしこ』と同じ詞を繰り返したこと。当時だと『あなかしこやゝゝゝ』と書く」(『評釈』)のだそうで、やはり見苦しい書き方なのでしょう。

歌は、初めの「草若み」が後に繋がりません。また常陸、いかが崎、田子の浦はそれぞれ全く関係のない別々の場所、というわけで、前節にあった「上句と下句との意味が通じない歌」の見本。

さらに、「大川水の」は覚え間違いで、言うなら「大川の辺の」だそうです。

手紙と、それを付ける枝は同色がよいとされる(『評釈』)そうですが、ここは青い紙に撫子の赤い花。

締めは、「樋洗童」で、これは「便器の掃除などをする童女」(『集成』)で、女御への使いには不似合いでしょう。

大まじめに懸命に書き上げた自分のとんでもない手紙を、そうとは思わないで「にっこりしながら見て」悦に入っているところなどは、堪らないおかしさとともに、憎めない人の好さが感じられて、楽しい笑い話になっていると言えるように思います。

もっとも、「以上のような何重ものあやまちをそばで見ていて直せるような侍女さえ彼女のまわりにはいなかった。そんな待遇だったということも、彼女の愛すべき欠点とともに、目にとめてよいと思う」と、『評釈』が言っています。》


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第四段 近江君、血筋を誇りに思う

【現代語訳】

 立派な四位五位たちがうやうやしくお供申し上げて、ちょっとお動きになるにもたいそう堂々とした御威勢なのをお見送り申し上げて、
「何とまあ、ご立派なお父様だこと。このような方の子供でありながら、賤しい小さい家で育ったとは」とおっしゃる。五節が、
「あまり立派過ぎて、こちらが恥ずかしくなるようでいらっしゃいますわ。相応な親で、大切にしてくれる方に、捜し出しされなさったならよかったのに」と言うのも、ひどい話である。
「またあなたがわたしの言うことをぶちこわしになさって、心外だわ。今は友達みたいな口をきかないで下さいよ。将来のある身なのですから」と、腹をお立てになる顔つきは、親しみがあってかわいらしくて、ふざけているところはそれなりに美しく大目に見られた。
 ただひどい田舎風で、賤しい下人の中でお育ちになっているので、物の言い方も知らない。大したことのない話でも、声をゆっくりと静かな調子で言い出したのは、ふと聞く耳でも、格別に思われ、おもしろくない歌語りをするのも、声の調子がしっくりしていて、先が聞きたくなり、歌の初めと終わりとをはっきり聞こえないように口ずさむのは、深い内容までは理解しないまでもの、ちょっと聞いたところでは、おもしろそうだと、聞き耳を立てるものである。
 大変に深い内容の趣向ある話をしたとしても、相当な嗜みがあるとも聞こえるはずもない、うわずった声づかいをしておっしゃる言葉はごつごつして訛があって、わがままに威張りちらした乳母の懐に今も馴れきっているふうに、態度がたいそう不作法なので、悪く聞こえるのであった。
 まったくお話にならないというのではないが、三十一文字の、上句と下句との意味が通じない歌を、早口で続けざまに作ったりなさる。

 

《姫は父の羽振りの好さを見て誇らしく、自分が卑しく生まれたことを残念に思っているようですが、この人がそういうことを言っても、少しも深刻な感じがありません。ここでも、その父を恨む気持は感じられませんし、それを卑下するような気持も無さそうで、ただ自分の不思議な巡り合わせを驚いているように見えます。

五節の少々率直すぎる感想も、それだけでなかなか愉快です。しかし姫は聞く耳を持たず、「将来のある身なのだから」と、結構自信があるようです。

五節は、もちろんこの院に来てから姫に付けられた女房なのでしょうが、このやりとりからは、普段の二人は、およそ貴族らしからぬ、おそらくお互いに歯に衣着せぬ、遠慮のない丁丁発止の関係なのだろうと想像できます。

彼女は今の自分が不十分であることはよく承知しているのですが、彼女なりに頑張ろうと思っていますし、それが可能だと、至って楽観的に考えている、といった感じです。

作者も「腹をお立てになる顔つきは、親しみがあってかわいらしくて、ふざけているところはそれなりに美しく大目に見られた」と、至って好意的です。

ただ、何としてもそのしゃべり方は頂けないもので、歌も詠むには詠みますが、全くの腰折れ短歌で、しかもでたらめのまま、次々に作って得意になっているという、まるで五七五七七というものを教わったばかりの子供のような案配です。

作者は、さすがに、どうも言葉遣いが一番気になるようです。》

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第三段 近江君の性情

【現代語訳】

「舌の生まれつきなのでございましょう。子供でした時でさえ、亡くなった母君がいつも嫌がって注意しておりました。妙法寺の別当の大徳が、産屋に詰めておりましたので、それにあやかってしまったと嘆いていらっしゃいました。何とかしてこの早口は直しましょう」と大変だと思っているのも、たいそう孝行心が深く、けなげだとお思いになる。
「その、側近くまで入り込んだ大徳こそ、困ったものです。全てはその人の前世で犯した罪の報いなのでしょう。唖とどもりは、法華経を悪く言った罪の中にも、数えているよ」とおっしゃって、

「わが子ながらも気の引けるほどの御方に、お目に掛けるのは気が引ける。どう考えて、こんな変な人を調べもせずに迎え取ったのだろうとお思いになり、女房たちも次々と見ては言い触らすだろう」と、考え直しなさるが、
「女御が里下りしていらっしゃる時々に、お伺いして、女房たちの行儀作法なども見習いなさい。大したことのない者でも、自然と大勢の中に混じって、その立場に立つと、恰好もつくものです。そういうつもりで、お目通り申されませんか」とおっしゃると、
「とても嬉しいことでございます。ただただ何としてでも、皆様方にお認めいただくことばかりを、寝ても覚めても、長年この願い以外の何も思っていませんでした。お許しさえあれば、水を汲んで頭に乗せて運びましても、お仕え致しましょう」と、たいそう調子よく一段と早口にしゃべるので、どうしようもないとお思いになって、
「まあそんなに、自分で薪をお拾いにならなくても、参上なさればよいでしょう。ただあのあやかったという法師さえ離れたならばね」と、冗談事に紛らわしておしまいになるのも気づかずに、同じ大臣と申し上げる中でも、たいそう美しく堂々として、きらびやかな感じがして、並々の人では顔を合わせにくい程立派な方とも分からずに、
「それでは、いつ女御殿の許に参上することにいたしましょうか」と申しあげるので、
「吉日などというのが良いでしょう。いや何、大げさにすることはない。そのようにお思いならば、今日にでも」と、お言い捨てになって、お渡りになった。

 

《何とも、愉快な対話で、悪気のない、あっけらかんとした姫君の言葉に翻弄されている内大臣の姿が、気の毒ですが滑稽です。

「(早口は)舌の生まれつきなのでございましょう(原文・舌の本性にこそはべらめ)」は、当時としては普通の言い方なのでしょうか、私のせいではないと言っているように聞こえます(続いて、大徳のせいだという話になります)が、それでも「直しましょう」というあたり、至って素直です。

それに対して父がすぐに「たいそう孝行心が深く、けなげだとお思いになる」と納得するのも、少々軽率ではないかという気がしますが、はたしてすぐに「水を汲んで頭に乗せて運びましても、お仕え致しましょう」ととんでもない申し出をされて、慌てることになります。恐らく彼女は幼少の頃には実際にそういう作業をしていたのでしょう。彼女にしてみれば、生活実感からの精一杯の申し出なのです。

それでもまだ父君には「法師さえ離れたならば」と冗談に紛らす余裕があったのです。それまでに何とか早口だけは直して貰いたい、と彼は言ったつもりなのでしょう。そのくらいの察しは、察しのうちに入らない…。

しかし「ただただ何としてでも、皆様方にお認めいただくことばかりを」願ってきた娘に耳は、そんなことはあっさり聞き過ごして、「それでは、いつ」と催促です。それも原文では「参りはべらむずる」とあって、これは『枕草子』が「『いはむずる』『里へ下がらむずる』などいへば、やがていとわろし」(「ふと心おとりするもの」の段)と言っている、当時使われ始めた助動詞「むず」の用例で、下品な表現とされていたものです。

ガックリ来た父は、自分から言い出したことでもあり、早く手放したくもあり、これ以上うまく噛み合わない対話をするに堪えないで、どうぞ好きなように、と逃げ出すしかありませんでした。

大事なことは、この姫君に、何の悪気もないことで、多分素直な心を持った、好い娘なのです。ただ如何せん、貴族感覚からみれば、自然児に過ぎるのです。

なお、この姫を近江の君と呼ぶのは、ここの冒頭で「妙法寺(近江国神崎郡にあった寺)の別当の大徳が、(母の)産屋に詰めておりました」とあり、近江生まれと思われることに拠るようです。》

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第二段 内大臣、近江君を訪う

【現代語訳】

 そのまま、この女御の御方を訪ねたついでに、ぶらぶらお歩きになってお覗きになると、簾を高く押し出して、五節の君といって気の利いた若い女房がいるのと、双六を打っていらっしゃる。手をしきりに揉んで、
「小賽、小賽」と祈る声は、とても早口であるよ。「ああ、情ない」とお思いになって、お供の人が先払いするのをも、手で制しなさって、やはり妻戸の細い隙間から襖の開いているところをお覗き込みなさる。
 こちらの人も、同じく興奮していて、
「お返しよ、お返しよ」と、筒をひねり回して、なかなか賽を打ち出さない。「中に思ひはあり」というわけでもなかろうが、二人ともたいそう軽薄な振舞をしている。
 器量は親しみやすくかわいらしい様子をしていて、髪は立派で、欠点はあまりなさそうだが、額がひどく狭いのと、声の上っ調子なのとで台なしになっているようである。取り立てて美人というのではないが、肉親ではないと抗弁することもできないほど、鏡に映る顔が似ていらっしゃるので、まったく運命が恨めしく思われる。
「この家にいらっしゃるのは、落ち着かず馴染めないのではないですか。大変に忙しくて、お訪ねできませんが」とおっしゃると、例によってとても早口で、
「こうしてお側にいますのは、何の心配がございましょうか。長年、どんなお方かとお会いしたいとお思い申し上げておりましたお顔を、常に拝見できないのだけが、よい手を打たぬ時のようなじれったい気が致します」と申し上げなさる。
「まったく身近に使う人もあまりいないので、側に置いていつもお世話しようと、以前は思っていましたが、そうもできかねることでした。普通の侍女であれば、どうあろうとも自然と立ち混じって、人の目にも耳にも必ずしもつかないものですから、安心していられましょう。それであってさえ、誰それの娘、何がしの子と知られる身分となると、親兄弟の面目を潰す例が多いようだ。ましてや」と言いかけてお止めになった、そのご立派さも分からず、
「いえいえ、それは、大層に考えまして宮仕え致しましたら、窮屈でしょう。大御大壺の係なりともお仕え致しましょう」とお答え申し上げるので、我慢なさることができず、ついお笑いになって、
「似つかわしくない役でしょう。このようにたまに会える親に孝行する気持ちがあるならば、その物をおっしゃる声を、少しゆっくりにしてお聞かせ下さい。そうすれば、寿命もきっと延びましょう」と、おどけたところのある大臣なので、苦笑しながらおっしゃる。

 

《いよいよ噂の近江君の登場ですが、また父親が娘の部屋に「ぶらぶら」やって来て、困った光景にぶつかりました。

 姫はお付きの若い侍女と大声を挙げて双六遊びをしているところでした。軒端の荻が登場した時(空蝉の巻第三段)に似た場面ですが、あの時は碁でこちらは双六、「碁よりもずっと低俗なもの」であり、また彼女の方はまず「才気がありそうに見えて、てきぱきとはしゃぐ」とありましたから、小気味よさがありましたが、こちらはもう一段庶民的のようです。

 まず内大臣の気に掛かったのは、「手をしきりに揉んで」という品のない仕草と、早口でした。高貴の人、特に女性はおっとりとしていなくてはなりません。また「声の上っ調子(原文・声のあはつけさ)」なのもいけません。

そういえば、昔、朧月夜の君の父の右大臣も、「早口で軽落ち着きがない(原文・舌疾にあはつけき)」(賢木の巻第七章第一段2節)とからかわれていたことを思い出します。

 「この家にいらっしゃるのは…」と女御への宮仕えを仄めかした返事に、父上に会えない「じれったさ」を「(碁で)よい手を打たぬ時のような」と勝負事に喩えたのも、呆れた言い方なら、はては、「大御大壺(便器のことです)の係なりとも」と言うに至っては、内大臣は叱るのを忘れて、もう笑うしかありません。

この姫の容貌は、「額がひどく狭い」のが難点のようですが、「親しみやすくかわいらし」く、「髪は立派で、欠点はあまりなさそうだ」と言いますから、まずは十人並みと言ってよいでしょう。

ところで、「取り立てて美人というのではないが、肉親ではないと抗弁することもできないほど、(内大臣の)鏡に映る顔が似ていらっしゃる」というのがちょっと肯けません。「内大臣は若いころは源氏に次ぐ美男子であったという印象をわれわれは持っている」(『評釈』・紅葉賀の巻頭)わけで、それなら美人であるはずですが、彼も年とともに衰えたのでしょうか。

ともあれ彼は、満足のいかない娘が、まごうかたなく自分の血を引いている証しを見て、まったく不本意に思うのでした。》

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