姫君は、このような源氏の矛盾した振る舞いを、
「自分自身の不運なのだ。親などに娘と認めていただき、人並みに大切にされた状態で、このようなご寵愛をいただくのなら、決して不似合いということはないだろうに。普通ではない境遇は、しまいには世の語り草となるのではないかしら」と、寝ても起きてもお悩みになる。
とは言え、「まったく感心しない扱いにはしてしまうまい」と、大臣はお思いになるのだった。
それでも、そのような困ったご性癖があるので、中宮などにも、決してとてもきちんとお思い申し上げていられるわけでもなく、何かにつけては穏やかならぬ申しようで気を引いてみたりなどなさるが、高貴なご身分が及びもつかない垣の高さなので、身を入れてお口説き申すことはなさらないが、この姫君は、お人柄も親しみやすく今風なので、つい気持ちが抑えがたくて、折ある毎に、人が拝見したらきっと疑いを持たれるにちがいないお振る舞いなどはあることはあるが、他人が真似のできないくらいよく思い返し思い返しては、危なっかしい仲なのであった。
《冒頭の「このような源氏の矛盾した振る舞い」は、原文では「さすがなる御けしき」とあります。「さすが」については、現代では賞讃の意味が一般で、ちょっと分かりにくい使い方です。
『辞典』が、「前にあった様子や事情から矛盾する事態が現れた場合に使う語。…よい事態が現れた場合にも使うところから…賞讃にも使うようになった」と説明していますから、ここでは、源氏が親という立場をとっていながら、恋心(色心と言うべきでしょうか)を見せて迫ったり、姫と宮との間で出歯亀もどきの企てをしたりと、玉鬘として、どう対処して好いか迷わされるような事を言っているわけです。
彼女は、そういう源氏の態度にすっかり参ってしまいます。それにしても、内大臣に娘として認めて貰った上で、こういう扱いを受けるなら、「決して不似合いということはないだろう」というのは、なかなかの自信です。こういうところが「親しみやすく今風(原文・気近く今めきたる)」なところなのでしょう。
源氏もまた、いろいろの思いがあって、恋心が抑えられない気がする一方で、「まったく感心しない扱いにはしてしまうまい」と、かろうじて一線を守っているといった案配です。「他人が真似のできないくらいよく思い返し」が滑稽で、こんなところでまで源氏を讃えている作者なのです。しかし多分本当にそういう感覚なのでしょう。
ポール・ブールジェの小説に「真昼の悪魔」というのがあって、中年の精神的危機を描いていると読んだことがあるような気がしますが、源氏にとって危機というわけではありませんが、心の動きとしてはそれに当たるのでしょうか。
『評釈』は、女性に対するこういう振る舞いは、「上流貴族の当然とるべき態度でもあった。美しい姫君を、周囲の男がほうっておいては、その姫君にたして失礼であったのだ」と言いますが、ここでの源氏の振る舞いは、どう読んでもエチケットと自覚してのそれと読める描き方ではないように思います。》