源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻二十五 蛍

第五段 内大臣、娘たちを思う

【現代語訳】
 内大臣は、お子様方が夫人たちに大勢あったが、その母方の血筋の良さや子供の人柄に応じて、思いどおりと言っていいような声望や御権勢に任せて、皆一人前に引き立てなさる。女の子はたくさんはいらっしゃらないが、女御もあのようにご期待していたこともうまくゆかず、姫君もまたあのように思惑と違うようなことでいらっしゃるので、とても残念だとお思いになる。
 あの撫子のことがお忘れになられず、あの折りにもお口になさったことなので、
「どうなったのだろう。頼りない親の料簡のせいで、かわいらしい子だったのに、行く方知れずにしてしまったことよ。だいたい女の子というものは、どんなことがあっても目を放してはならないものであった。勝手に私の子供と名乗って、みじめな境遇でさまよっているのだろうか。どのような恰好でいるにせよ、噂が聞こえて来たならば」と、しみじみとずっと思い続けていらっしゃる。ご子息たちにも、
「もし、そのように名乗り出る人があったら、聞き逃すな。好き心から、なすべきでないことも多かった中で、あの人は、とても並の相手程度とは思われなかった人が、つまらぬことで私を恨んで、このように少なかった娘一人を行方不明にしてしまったことの残念なことよ」と、いつもお口に出される。

ひところなどはそんなにでもなく、ついお忘れになっていたが、人がさまざまに娘を大切になさっている例が多いので、ご自分でお思いのとおりにならないのが、とても情けなく、残念にお思いになるのであった。
 夢を御覧になって、たいそうよく占う者を召して、夢の意味をお解かせになったところ、
「もしや、長年あなた様に知られずにいらっしゃるお子様を、他人の子としてお耳にあそばすことはございませんか」と申し上げたので、
「女の子が他人の養女となることは、めったにないことだ。どのようなことだろうか」などと、このころになって、お考えになったりおっしゃったりしているようである。

 

《今度は、これも久々に内大臣の話です。玉鬘の話が、次第に六条院の中だけのものではなくなって、広がりを見せていくわけです。

 内大臣は、子供は多いのですが、男の子ばかりで、娘は今のところ弘徽殿女御と雲居の雁の二人だけです。弘徽殿には中宮のポストを期待していたのですが、源氏によって斎院の女御に取られ、雲居の雁は夕霧に心を奪われて入内できそうになくなりました。

何とかまともな娘はいないかと思うところから、久し振りに「撫子」のことを思い出しました。若い頃、例の帚木の巻の「雨夜の品定め」で源氏に話した(第二章第三段)の「常夏の女」(源氏にとっては夕顔)の娘、つまり今の玉鬘です。

 彼はその求める娘がまさかそんなすぐ近くいるとは夢にも思わず、妙に身を持ち崩したりしていなければいいがなどと心配しながら、息子たちにも「好き心から、なすべきでないことも多かった」などと余計な事まで言いながら(いや、そういうことは男と甲斐性として当たり前のことで、何も息子に憚ることではなかったのかも知れませんが)、事情を話して、もしそういう娘の噂でもあったら聞き逃すなと厳命を下します。

 一方で玉鬘も、源氏の厄介な口説きに迫られる中で、何とか早く本当の父に会いたいものと思い続けています。

 古代、会いたいと強く思うと、自分の魂が身から離れてその相手の所に行くと信じられていました。だからでしょうか、そんな時、内大臣は夢を見ます。占い人にその夢を解かせると、そういう娘が誰かの養女になっているのではないかと言います。

「女の子が他人の養女となることは、めったにないことだ」と不思議に思った、と言いますから、当時はそういうものだったのでしょうか。

『評釈』も「女の子は人に会わないもの、人に顔をあわすときはその男と結婚する時」といいますが、しかし、明石の姫は紫の上の、六条御息所の娘は源氏の、それぞれ養女になったわけですから、この物語の中では、それほど特異なことでもありません。

ともあれ、玉鬘は彼女の知らぬところで、内大臣に一歩近づいたわけです。

こうして五月が終わり、夏の終わり、六月に入ります。》

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第四段 源氏、子息夕霧を思う

【現代語訳】

 中将の君を、こちらにはお近づけ申さないようにしていらっしゃったが、姫君の御方には、そんなにも遠ざけ申しなさらず、親しくさせていらっしゃる。

「自分が生きている間はどちらにせよ同じことだが、死んだ後を想像すると、やはり平生から見慣れ、馴染んでおいた方が、格別親しい気がするに違いない」と考えて、南面の御簾の内側に入ることはお許しになっていた。台盤所の女房の中はお許しにならない。

何人もいらっしゃらないお子たちとの間柄なので、とても大切にお世話申し上げていらっしゃった。
 普段のものの考え方なども、たいそう慎重で、真面目でいらっしゃる君なので、安心して姫をお任せになっている。まだ幼いお人形遊びなどの様子が見えるので、あの人と一緒に遊んで過ごした昔の月日が、真先に思い出されるので、人形遊びのお相手を、とても熱心になさりながら、時々は涙ぐんでいらっしゃるのであった。
 しかるべきあたりには、軽い気持ちで言い寄ったりなさる女は大勢いるが、結婚の望みを懸けてくるようには仕向けない。それなりに世話してもよさそうだと、気に入りそうな女も、あえて一時の浮気ということにして、やはり「あの、緑の袖よと馬鹿にされたのを見返したいものだ」と思う気持ちだけが、重大事として忘れられないのであった。是が非にもなどとつきまとったならば、根負けしてお許しになるかも知れないが、つらいと思ったあの折々に、「何とか内大臣にも分らせてさし上げよう」と心に決めたことが忘れられないので、ご本人に対してだけは並々ならぬ愛情の限りを表して、表面では恋い焦がれているようには見せない。ご兄弟の公達なども、たいそう小憎らしいなどと思う事が多かった。

対の姫君のご様子を、右中将は、たいそう深く思いつめて、言い寄る手引きもたいそう頼りなかったので、この中将の君に泣きついて来たが、
「他人事となると、熱心にはなれないものですよ」と素っ気なく答えていらっしゃるのだった。その昔の父大臣たちの御仲に似ている。

 

《久し振りに夕霧の登場です。雲居の雁を取り上げられてから三年が経とうとして、今彼は十五歳、思春期を過ぎて青春まっただ中というところです。

 源氏は、彼を「こちら」(東南の邸・紫の上のところ)には近づけないようにしています。自分と藤壺との間のようなことが起こるのを警戒するからなのですが、しかし明石の姫君との間については、二人しかいない子供たちであり、将来は後見させなくてはならないと思うので、親しませておきたいと考えて、彼女の居る南面の間にだけは近づくことを認めています。

その上で、作者は、紫の上の住む西の対はもちろん、上お付き女房たちが居る台盤所にも、手引きなどされたりしないように「お許しにならない」のだった、と繰り返します。何か、作者が大変気にしているようで、おかしいところです。

一方、夕霧は、いたって生真面目で、また、七歳年下の妹と上手に遊んでやっていますが、また、そうして遊びながら少し以前の雲居の雁と遊んだことを思い出して、「時々は涙ぐんでいらっしゃる」という純情ぶりです。もっとも、雲居の雁は彼よりも二つだけですが年上で、この幼い姫を見ながら年上の彼女を思い出すというのは、少し不自然な感じがしますが、どうでしょうか。

彼は、たくさんの女性に声を掛け、ナンパしてはいるようですが、それはあくまでナンパであって、思いはひとえに雲居の雁にあります。それも、そういう素振りは表に出さず、自分から頭を下げて頼み込むことなど考えず、今にきっと見返してやると、父の内大臣が自分を認めざるを得なくなるのをじっと待っています。

生真面目で純情と言いながら、なかなか骨のありそうな若者です。もちろん、父・源氏の七光りがあるから出来ることではありますが。

そういう彼の態度を、雲居の雁の兄弟たちは「小憎らしい」と、おもしろく思いませんから、必ずしも彼に協力的ではないようです。

一方、その兄弟の筆頭である右中将(後に柏木と呼ばれる人)は、玉鬘に強く思いを寄せていて、例の「みるこ」(胡蝶の巻第二章第四段)を通して言い寄るのですが、埒が明かず、夕霧に何とか協力をとモーションを掛けるのですが、「他人事となると、熱心になれないものですよ」とすげない挨拶です。

「仲がよくって、いじわるして。どうもこういったところ、かつての源氏と頭の中将そっくりじゃあありませんか。と、作者は言う」(『評釈』)のでした。

どうやら、一世代、ぐるりと時代が廻った感があります。》

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第三段 源氏、紫の上に物語について述べる

【現代語訳】
 紫の上も、明石の姫君のご注文にかこつけて、物語は捨てがたく思っていらっしゃった。『くまのの物語』を絵にしたのを、「とてもよく描いた絵だわ」と御覧になる。小さい女君があどけなく昼寝をしていらっしゃる所を、昔のご自分の様子をお思い出しになって、女君は御覧になる。
「このような子供どうしでさえ、なんとませたことだろう。私など、やはり語り草になるほど、気の長さは誰にも負けませんね」と申し上げなさる。なるほど、世間に例の多くない恋愛を、数々なさってこられたことよ。
「姫君の御前で、この色恋沙汰の物語など、読み聞かせなさるな。秘め事をする物語の娘などは、おもしろいと思わぬまでも、このようなことが世間にはあるのものだと、当たり前のように思われるのが、困ったことなのですよ」とおっしゃるにつけても、格段に違うと、対の御方がお聞きになったら、きっとひがまれよう。紫の上は、
「軽率な物真似の類は、見ていてもたまりません。『宇津保物語』の藤原の君の娘は、とても思慮深くしっかりした人で、間違いはないようですが、そっけない返事もそぶりも、女らしいところがないのは、同じようにいけませんね」と、おっしゃると、
「現実の人も、そういうもののようです。一人前にそれぞれが違うことを言い立てて、加減を考えません。それなりの親が気を使って育てた娘が、おっとりしているだけがただ一つのとりえで、劣ったところが多いのは、いったいどんなふうにして育ててきたのかと、親の育て方までが想像されるのは、気の毒です。
 なるほど、そうは言っても、身分にふさわしい感じがすると思えるのは、育てたかいもあり、名誉なことです。口をきわめて気恥ずかしいほど誉めていたのに、しでかしたことや、口に出した言葉の中に、なるほどと見えたり聞こえたりすることがないのは、まことに見劣りがするものです。
 だいたい、つまらない人には、どうか娘を誉めさせたくないものです」などと、ひたすら、この姫君が非難されないようにと、あれやこれやといろいろ考えておっしゃる。
 継母の意地悪な昔物語も多いが、最近は、姫が紫の上はそういう気持ちなのだと思うとよくないとお思いになって、厳しく選んでは、清書させたり、絵などにもお描かせなさるのだった。

 

《紫の上も姫の教育に本が必要と、集めていました。『くまのの物語』は、今では散逸した物語で、実際のことは分からないようですが、幼い男女の恋物語なのでしょう。かわいらしい姫の寝姿が描かれていて、そこに男君がやって来る場面だったのでしょうか。紫の上はその姫の寝姿に自分の幼少期を思い出し、一緒に覗いていた源氏はそういうかわいい姫だった若紫を掠ってきて成長するまで待ったことを言っているのです。

そこから、物語が読み手に及ぼす影響の話になります。特に恋愛の物語は、『ロメオとジュリエット』を挙げるまでもなく、当事者の男女の自己主張はしばしば反体制的な行動となり、体制側にとっては容易ならぬものです。源氏自身も、朧月夜尚侍の時は、そのこと故に、当時の体制側によって都から弾き出される憂き目に遭ったものでした。

大事な姫にそういうよからぬ「秘め事」を教えることにならないように、と源氏は注意します。

「『宇津保物語』の藤原の君の娘」は、「貴宮のこと。貴宮は、多くの姫君たちの中でも特別に美しく才たけて、しかも現代的であったので、早くから求婚者が殺到した」(『評釈』)という人ですが、紫の上は、「現代的」すぎて(「そっけない返事もそぶりも、女らしいところがない」、つまり柔らかみがなくて)よくないから、姫にはこういうのも手本にさせたくはない、と言います。

「実際の人も…」以下の源氏の話は、挙げられた例の繋がりがよく分かりません。

①現実の若者(娘)も、その「貴宮」同様に、自分の考えに偏りがあることに気づかないで、「一人前にそれぞれが違うことを言い立てて」人に譲るということをしない者が多い。 

②それなりの親が育てた娘が、子供らしいだけで、欠点が多いとがっかりする。

③身分に相応しいと思えるような娘は、いいものである。

④まわりが褒めそやす娘が、なるほどと思わせるようなところがないのは、よくない。

②の「欠点」は①の自己主張がひどいことを指すのでしょうか。③は『集成』が「以下、再び、かたよってはいても、貴宮的なしっかりした娘に話をもどす」と言います。

④は、その貴宮のような環境でありがちな別の問題ということでしょうか。

どうも羅列的で考えの流れが見えないところです。

ともあれ、ここは物語論から派生した明石の姫君についての教育方針として読むべきであるようで、最後は「継母の意地悪な昔物語」も、姫が継母である紫の上について偏見を持ったりする心配があるので、見せる物語は厳選しなくてはならないと、元に帰っての話で結ばれます。

『評釈』が「もともと物語というものは、…姫君を教育するために作られたもの」といいますが、文学は、近代に置いても婦女子の慰み物とされる一方で、不道徳なものと忌避される傾向もあったわけで、古くから、読むものにとってはそれほどに面白く魅力的で、また大人から警戒されるものであったのです。》

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第二段 源氏、玉鬘に物語について論じる

【現代語訳】
「誰それの話といって、事実どおりに物語ることはないけれども、善いことも悪いことも、この世に生きている人の有様の、見飽きず聞き流せないことを、後世に語り伝えたい事柄を心の中に籠めておくことができず、語り伝え始めたものです。いいように言おうとしてはいいことばかりを選び出し、読者におもねろうとしてはまた悪いことでありそうにもないことを書き連ねていますが、皆それぞれに本当のことで、この世の他のことではないのですよ。
 異朝の作者は、記述のしかたが変わっていますが、同じ日本の国のことなので、昔と今との相違がありましょうし、深いものと浅いものとの違いがありましょうが、一途に作り話だと言い切ってしまうのも、実情にそぐわないことです。
 仏がまことに立派なお心で説きおかれた御法文も、方便ということがあって、分からない者は、あちこちで矛盾するという疑問を持つに違いありません。『方等経』の中に方便説は多いけれども、詮じつめていくと一つの主旨に落ち着いて、菩提と煩悩との相違とは、物語の善人と悪人との相違程度に過ぎません。よく解釈すれば、全て何事も無駄でないことはなくなってしまうものですね」と、物語を実に大したもののようにおっしゃった。
「ところで、このような昔物語の中に、私のような律儀な愚か者の物語はありませんか。ひどく親しみにくい物語の姫君も、あなたのお心のように冷淡で、そらとぼけている人はまたとありますまいね。さあ、二人の仲を世にも珍しい物語にして、世間に語り伝えさせましょう」と、近づいて申し上げなさるので、顔を襟に引き入れて、
「そうでなくても、このように珍しいことは、世間の噂になってしまいそうなことでございます」とおっしゃるので、
「珍しくお思いですか。なるほど、またとない気持ちがします」と言って、寄り添っていらっしゃる態度は、たいそううち解けた様子である。
「 思ひあまり昔のあとをたづぬれど親にそむける子ぞたぐひなき

(思い余って昔の本を捜してみましたが、親に背いた子供の例はありませんでしたよ)
 親不孝なのは、仏の道でも厳しく戒めています」とおっしゃるが、顔もお上げにならないので、お髪を撫でながら、ひどくお恨みなさるので、やっとのことで、
「 ふるき跡をたづぬれどげになかりけりこの世にかかる親の心は

(昔の本を捜しましたが、確かにありませんでした。この世にこんな親心の人は)」
と申し上げなさるにつけても、気恥ずかしいので、そうひどくもお戯れにならない。
 こんな具合で、どうなって行くお二方の仲なのであろう。

 

《物語の人物は、ある人の現実にいる姿を描いたものではなく、その人の特徴を特に強調して描き出したものなのだと、源氏は言います。ここで、おこがましいですが、それを私流に敷衍させていただくと、次のようです。

例えば、『戦争と平和』のナターシャのように無垢で明朗で優しく愛らしい女性を、現実の生活の中で見つけるのは大変困難です(紫の上も負けてはいませんが、ここは敢えて挙げません)。しかし物語を読んでいる時、彼女は、大変魅力的に、まるで実在する人のように存在感を持って、物語の中で輝いています。

私たちは現実の人間関係の中からは、せいぜい人への対処の仕方を考えるくらいで、人間というものの本質を理解するなどということはめったにありません。それは、現実の人間や人間関係はあまりに複雑で、というよりもあまりに多くの夾雑物を持っていて、言ってしまえば不純物だからだと思います(それが生身の人間ということですが)。

それに比べて優れた文学作品の登場人物は、多分、言わば鉱物の結晶のように純粋に磨き上げられているのです。優れた作家は、言葉でその夾雑物をそぎ落とした、純粋な結晶を描き出します。それは仏師が一本の丸太から仏を彫り出すような作業だと思われます。私たちは作品を読みながら、そういう人物達に出会って、初めて本質的人間に出会ったという気がして、彼の活躍する世界の方をより現実と感じるわけです。

その世界は、当然現実の世界よりも純粋化されていて、しかも有機的に構成されています。多分私たちは心の奥でそういう世界を求めているのです。

「異朝の作品は」の段落の解釈は、どうもしっくり来ませんが、諸説あるようですので、触れないことにします。

 ところで、文学には世間的には悪人と言うべき人も多く登場します。いやむしろ悪人の方が多いかも知れません。『罪と罰』は殺人犯と娼婦の物語です。しかし私たちは、それを読みながら、彼らを執拗に追い回す予審判事ポルフィーリー・ペトローヴィチよりも、逃げ回ろうとするラスコーリニコフの方に心を傷め声援を送るのです。実は、悪こそが人間の本質をさらけ出させるのです。菩提と煩悩が裏表である所以です。そうして、いつの間にか私たちは、かの予審判事にさえも親近感を持っているのです。

 と、源氏の物語論は、取りあえずここまでで、それをダシに源氏は、またしても玉鬘に言い寄るのでした。

 さいわい、と言うべきでしょうか、彼女のやんわりとした皮肉に、源氏は恥じ入って、ここも事なきを得ますが、作者は意味ありげに一言添えてこの場面を終えます。》

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第一段 玉鬘ら六条院の女性たち、物語に熱中

【現代語訳】
 長雨が例年よりもひどく降って、晴れる間もなく所在ないので、御方々は絵や物語などを遊び事にして毎日お暮らしになっていらっしゃる。明石の御方は、そのようなことも優雅な趣向を凝らして仕立てなさって、姫君の御方に差し上げなさる。
 西の対では、まして珍しくお感じになる遊び事なので、毎日写したり読んだりしていらっしゃる。そのうってつけの若い女房たちが大勢いる。いろいろと珍しい人の身の上などを、本当のことか嘘のことか、たくさん物語っている中でも、「自分の身の上と同じような人はないものなのだなあ」と御覧になる。『住吉物語』の姫君が、その当時の評判もさることながら、今の評判もやはり格別のようだが、主計頭がもう少しで姫を奪うところであったことなどを、あの監の恐しさと思い比べて御覧になる。
 殿も、あちらこちらでこのような絵物語が散らかっていて、お目につくので、
「ああ、困ったものだ。女性というものは、面倒がりもせず、人にだまされようとして生まれついたもののようですね。たくさんある話の中にも真実は少ないだろうに、そうとは知りながら、このようなつまらない話にうつつをぬかし、だまされなさって、蒸し暑い五月雨の、髪の乱れるのも気にしないで、お写しになることよ」と言って、お笑いになる一方で、また、
「このような古物語でなくては、まったくどうして気の紛らしようのない退屈さを慰めることができようか。それにしても、この嘘八百の物語の中に、なるほどそうもあろうかとものの情趣を感じさせ、もっともらしく書き綴ったのは、それはそれでたわいもないこととは知りながらも、無性に興をそそられて、かわいらしい姫君が物思いに沈んでいるのを見ると、何程か心引かれるものです。
 また、けっしてありそうにないことだと思いながらも、大げさに誇張して書いてあるところに目を見張る思いがして、落ち着いて再び聞く時には憎らしく思うが、とっさには面白いところなどがきっとあるのでしょう。最近、幼い姫が女房などに時々読ませているのを立ち聞きすると、何と口のうまい者がいるものですね。嘘をつき馴れた者の口から言い出すのだろうと思われますが、そうではないですか」とおっしゃると、
「本当に、嘘をつくことに馴れた人は、いろいろとそのようにご想像なさるでしょう。ただどうしても真実のことと思われるのです」と言って、硯を押しやりなさるので、
「ぶしつけに物語をけなしてしまいましたね。神代から世の中にあることを、書き記したものだそうです。『日本紀』などは、ほんの一面にしか過ぎません。物語にこそ道理にかなった詳細な事柄は書いてあるのでしょう」と言って、お笑いになる。

 

《名高い、紫式部の物語論の段で、この前段は読者論です。

長雨の所在なさに、どの女君方も、「絵や物語など」を楽しんで、憂さを晴らしています。その中で西の対の玉鬘は、これまで物語などというものに触れたことがないので、一方で物語の人物よりも自分の人生の方がよほど数奇だなどと思いながら、それでも侍女たちとともに夢中になっています。

源氏がやって来てそういう様子を見て、早速からかいます。「女性というものは、面倒がりもせず、人にだまされようとして生まれついたもののようですね」。これを女性の作者がみずから言うのですから驚きます。

遊園地のジェットコースターやお化け屋敷で行列を造っているのは、決まって女性で、彼女たちはその怖さに嬌声を発することをわくわくして待っているのです。女性には非現実の世界を求める気持があるようで、同じようでも男性は非日常を求める傾向があると言えそうです。逆に女性は日常の安定を求め、男は非現実を厭うように思われますが、どうでしょう。

後段は言わば古代文学史を語ったところ。「(物語は)神代から世の中にあることを、書き記したもの」で、『日本紀』(「日本書紀」)もそういう流れの中に一括できるけれども、「物語」に比べると一面しか捉えていない、と考えているようです。歴史書は事実・事象しか語っていないが、物語(文学)は「人間」を語っている、ということでしょうか。

物語は嘘ばかりが書かれているのに、心引かれるものだが、それはそうすることによって、そこに人間の本質や機微が描かれているからだろう、と言っているようです。平安朝版・虚実皮膜論というところで、なかなかの議論です。

ただ、『光る』が、ここには「論」はあるが、論の「衝突」がない、源氏の意見がただ述べられているだけだ、と残念がっていますが、確かにそう思われます。》

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