源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻二十三 初音

第二段 源氏、踏歌の後宴を計画す

【現代語訳】

 夜がすっかり明けてしまったので、ご婦人方は御殿にお帰りになった。大臣の君は少しお寝みになって、日が高くなってお起きになった。
「中将の君は、弁少将に比べて少しも劣っていないようだったな。不思議と諸道に優れた者たちが出る時代なのだな。昔の人は本格的な学問では優れた人も多かっただろうが、風雅の方面では、最近の人より勝れているわけでもないようだ。中将などは、生真面目な官僚に育てようと思っていて、自分のようなとても風流に偏った融通のなさを真似させまいと思っていたことだ。やはり心の中は多少の風流心も持っていなければならない。とりすまして真面目な表向きだけでは、けむたいことだろう」などと言って、たいそうかわいいとお思いになっていた。

「万春楽」を、お口ずさみになって、
「ご婦人方がこちらにお集まりになった機会に、どうかして管弦の遊びを催したいものだ。私的な後宴をしよう」とおっしゃって、弦楽器などが、いくつもの美しい袋に入れて秘蔵なさっていたのを、皆取り出して埃を払って、緩んでいる絃を、調律させたりなどなさる。御婦人方は、たいそう気をつかったりして、緊張をしつくされていることであろう。

 

《翌日、日が高くなっての、昨夜の名残です。

「弁少将」は内大臣の次男、幼少の折の賢木の巻に十歳位の少年として出て来た時から、歌(詠む和歌ではなく、歌を歌うこと)の名手と称えられていました。昨日の夕霧は、その人に劣らなかったと、源氏は親ばかぶりを発揮しながら、満足の態です。

『評釈』は、弁少将はこの後も、歌の道の達人として幾度か出てくるが、夕霧がそう言われることはない、と冷たく考証しています。まったくの親ばかということになりますが、むしろ、源氏よりも作者がそう言いたかったのであって、昨夜の華やぎを描いた余韻が作者の方に残っているのだと思われます。

ここは六条院の春爛漫を語っているのであって、以下に語られる「私的な後宴」の計画を語るのも、同じ意味でしょう。

従って、その話は実際に描かれる必要はなく、この曼荼羅巡礼の巻は、こうして華やぎの中に幕を閉じます。

しかし改めてふり返ると、ここでは全てが並列的に語れて、新しい出来事はありませんでしたし、登場人物も、花散里の特異な立場と明石の御方の存在感を除けば、格別の新しい側面も、語られることがありませんでした。

『構想と鑑賞』が、「この巻をよくいえば、優雅繊細で温かい情愛が流れている目出度い物語であり、当時の宮廷人は、そのような意味で受け入れたのであろうが、今日からみると生温くて突込みが浅く、極端にいえば、平凡安逸の風俗描写に過ぎないともいえる」と酷評していますが、それももっともと思われます。

しかし、『戦争と平和』でも、冗漫に思えて跳ばして読むしかないように思われるところがずいぶんある(そこにいくと、『罪と罰』は全編がスリルとサスペンスの連続で、息つく暇がない、という気がします。一つの事件を描く作品と、大河ドラマとの違いでしょう)ことを思えば、長編物語には、そういう、時代の制約を受けたり、作者の個人的関心が書かせたと思われたりするところがあるのは、許されることではないかという気がします。そういうことを含めて、物語がゆったりと進んでいくのも、ひとつの醍醐味とでも言いましょうか。》


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第一段 男踏歌、六条院に回り来る

【現代語訳】

 今年は男踏歌がある。内裏から朱雀院に参上して、次にこの六条院に参上する。道中が遠く、明け方になってしまった。月が曇りなく澄みきって、薄雪が少し降った庭が何ともいえないほど素晴らしいところに、殿上人なども音楽の名人が多いころなので、笛の音もたいそう美しく吹き鳴らして、殿の御前では特に気を配っていた。御婦人方が御覧に来られるように、前もってお便りがあったので、東西の対の屋、渡殿などに、それぞれお部屋を設けていらっしゃる。
 西の対の姫君は、寝殿の南の御方にお越しになって、こちらの姫君とご対面があった。紫の上もご一緒にいらっしゃったので、御几帳だけを隔て置いてご挨拶申し上げなさる。
 朱雀院の后宮の御方などを回っていったころに、夜もだんだんと明けていったので、水駅として簡略になさるはずのところを、例年の時よりも特別に追加して、たいそう豪華に饗応させなさる。
 白々とした明け方の月夜に、雪はだんだんと降り積もってゆく。松風が木高く吹き下ろして、興ざめしてしまいそうなころに、青い、糊気のなくなった袍に、白い下襲を着た色合わせは何の飾り気も見えない。
 插頭の綿は、何の色艶もないものだが、場所柄のせいか風情があって、うっとりとして寿命も延びるような気がする。
 殿の中将の君や、内の大殿の公達は、大勢の中でも一段と勝れて立派に目立っている。
 ほのぼのと明けて行くころ、雪が少し散らついて何となく寒く感じられるころに、「竹河」を謡って寄り添い舞う姿や思いをそそる声々が、絵に描き止められないのが残念である。
 御婦人方の席では、いずれ劣らぬ押し出しがこぼれ出ている仰々しさ、お召し物の色合いなども、曙の空に春の錦が姿を現した霞の中かと見渡される。不思議なほどに満足のゆく催し物であった。
 一方では、高巾子の世離れした様子や、寿詞の騒々しく滑稽なこともしかつめらしく言い立てたのは、かえって何ほどの面白い節も聞かれなかったのだが、例によって、綿を一同頂戴して退出した。

 

《「男踏歌」は「正月十四日、宮中で行われる儀式。清涼殿東庭の帝の前で、歌を歌い足拍子を踏んで舞を舞う。終わると禄の綿を賜り、宮中を退下、つづいて院、中宮、東宮などを廻って同様に踏歌を行い、暁に宮中に帰る。」というもので、「隔年、または数年を隔てて行われた。『今年は』と、特にことわるゆえん」と『集成』にあります。

 「舞台装置は満点である。自然は名月と薄雪を賜い、人工の極みをいたした庭に、源氏の知性下とて音楽上手が多く、今年の踏歌は格別の物に」(『評釈』)なりました。

 その一行が夜明け方になって六条院南邸にやって来ます。婦人方も招かれて東西の対の屋や渡殿にずらりと並んで見物です。中で、西の対の姫君(玉鬘)は、娘扱いと言うことがあるからでしょうか、寝殿の南の部屋、源氏、紫の上、明石の姫君がいるところに呼ばれて、姫と対面し、上にご挨拶を許さるのでした。

 「插頭の綿は、何の色艶もないものだが、場所柄のせいか風情があって…」について、『評釈』が次ぎのようなことを言っています。男踏歌は九八三年に中絶した儀式で、作者は五,六歳のはずで実際には見た記憶はなく、後に、あまり面白くなかったというような話を聞いていたのだろう、そこで、そういう儀式でも六条院なら素晴らしかった、と言っているのだ…。

 しかし実際の儀式はやはり面白く書きようもなかったのでしょうか、具体的な描写もなく、もっぱらこの場の人々の様子の素晴らしさが語られていきます。

「殿の中将の君」(夕霧)や「内の大殿の公達」は、この一行のリーダーを務めていて、ひときわ華やかに見えます。

居並んだ女性たちの押し出し(外から美しく見えるように女房の衣の裾、袖口などを御簾の下からはみ出させて置くこと、またその衣)(『辞典』)も、艶やかでした。

つまり作者の関心は、聞き知っていた男踏歌という、今はなくなった儀式を話題にすることで、古きよき時代の物語であることを示して、六条院というところを、その「よき時代」の素晴らしさ、艶やかさを現前している場として描く、という点にあったのではないかと思われます。》

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第二段 続いて空蝉を訪問

【現代語訳】

 空蝉の尼君にもお立ち寄りになった。ご大層な様子ではなくひっそりと部屋住みのような体にして、仏ばかりに広く場所を差し上げて勤行している様子がしみじみと感じられて、経や仏のお飾り、ちょっとしたお水入れの道具なども、風情があり優美で、やはり嗜みがあると見える人柄である。
 青鈍で意匠も面白い几帳に、すっかり身を隠して座って、袖口だけが格別なのも、心惹かれる感じなので、涙ぐみなさって、
「『松が浦島(尼君のお住まい)』は遥か遠くに思って諦めるべきだったのですね。昔からつらいご縁だったことです。そうはいってもやはりこの程度の付き合いは、絶えないのだったのですね」などとおっしゃる。尼君も、しみじみとした様子で、
「このように出家の身となってお頼り申し上げていますとは、ご縁は浅くないのだと存じられます」と申し上げる。
「薄情な仕打ちを何度もなさって、私の心をお乱しになった罪の報いなどを、仏に懺悔申し上げるとはお気の毒なことです。お分かりですか。このように素直な者はいないのだと、お気づきになることもありはしないかと思います」とおっしゃる。

「あのあきれた昔のことをお聞きになっていたのだ」と、恥ずかしく、
「このような姿をすっかり御覧になられてしまったことより他に、どのような報いがございましょうか」と言って、心の底から泣いてしまった。

昔よりもいっそうどことなく思慮深く落ち着きが加わって、このような出家の身を守っているのだとお思いになると、見放しがたい気持におなりになるが、色めいた冗談も話しかけるべきではないので、普通の昔や今の話をなさって、「せめてこの程度の話相手であってほしいものよ」と、あちらの方を御覧になる。
 このようなことで、ご庇護になっている婦人方は多い。皆一通りお立ち寄りになって、
「お目にかかれない日が続くこともありますが、心の中では忘れていません。ただいつかは死出の別れが来るのが気がかりです。『命ぞ知らぬ(いつまでも忘れないつもりですが)』」などと、やさしくおっしゃる。

どの女君をも、身分相応につけて愛情を持っていらっしゃる。自分こそはと気位高く構えてもよさそうなご身分の方であるが、そのように尊大にはお振る舞いにはならず、場所柄につけ、また相手の身分につけては、どなたにもやさしくいらっしゃるので、ただこのようなお心配りをよりどころとして、多くの婦人方が年月を送っているのであった。

 

《次は空蝉です。この人は、関屋の巻での妙にあっさりとした扱いにも関わらず、ここでは、「勤行している様子がしみじみと感じられて、…風情があり優美で、やはり嗜みがあると見える」と、ずいぶん好意的に書かれているように思われます。

しみじみとした対話の中で、源氏が「薄情な仕打ちを何度もなさって…」と語りかけ、空蝉は「あのあきれた昔のことを…」と思うのですが、これは彼女の出家の動機にもなった、「夫の伊予の介没後、継子の紀伊の守が言い寄ったこと」を指している(『集成』)ということのようです。

源氏としては、あの継子のしつこかったのに比べて、自分がどんなに素直だったかを認めてほしいと言っているわけです。

あとはさりげなく親しく四方山の話をして帰るのですが、帰りながら(でしょうか)、せめてこの程度の普通の対話が出来たら、と末摘花の住まいの方を見やりながら思ったと言います。自分としたことが、何という人を相手にしてしまったことかと、改めて思う源氏なのでした。

さてこれで曼荼羅巡礼はひとまず終わりですが、実はその他にも「ただこのようなお心配りをよりどころとして、多くの婦人方が年月を送ってい」た、と言います。》

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第一段 二条東院の末摘花を訪問~その2

【現代語訳】2
 お声なども、たいそう寒そうに、ふるえながらお話し申し上げなさる。見かねなさって、
「衣装のことなどを、お世話申し上げる人はございますか。このように気楽なお住まいでは、ひたすらとてもくつろいだ様子で、ふっくらして柔らかくなっているのがよいのです。表面だけを取り繕ったお身なりは、感心しません」と申し上げなさると、ぎごちなくそれでもお笑いになって、
「醍醐の阿闍梨の君のお世話を致そうと思って、自分の着物なども縫うことができずにおります。皮衣まで取られてしまった後は、寒うございます」と申し上げなさるのは、まったく鼻の赤い兄君だったことである。素直でよいとはいっても、あまりに身も蓋もなさすぎるとお思いになるが、この人相手ではとても実直で無骨な人になっていらっしゃる。
「皮衣はそれでよい。山伏の蓑代りの衣にお譲りになってよいでしょう。そうして、この惜しげなく着られる白地の衣は、七枚襲にでも、どうして重ね着なさらないのですか。必要な物がある時々には、私が忘れていることでもおっしゃってください。もともと愚か者で気がきかない性分ですから。まして方々への忙しさに紛れて、ついうっかりしまして」とおっしゃって、向かいの院の御倉を開けさせなさって、絹や綾などを差し上げなさる。
 荒れた所もないが、源氏がお住まいにならない所の様子はひっそりとして、お庭先の木立だけがたいそう美しく、紅梅の咲き出した匂いなど、鑑賞する人がいないのをお眺めになって、
「 ふるさとの春の梢にたづね来て世の常ならぬ花を見るかな

(昔の邸の春の梢を訪ねて来てみたら、世にも珍しい紅梅の花が咲いていたことよ)」
 独り言をおっしゃったが、お聞き知りにはならなかったであろう。

 

《几帳を隔てながら、それでも二人の対話が少しずつ交わされます。「むかしは『む、む』ぐらいしか言わなかった(末摘花の巻第一章第八段2節)、…、大進歩である」と『評釈』が言います。

 しかし、女君の声は寒さに震えている様子です。「(源氏は)『いっぱい着なさい。スタイルはかまわずともよい』と言う。ずいぶんひどい言い分だが、これぐらい言わないとこたえない」(同)のです。

 その返事を、女君は「ぎごちなくそれでもお笑いになって(原文・こちごちしくさすがに笑ひたまひて)」言ったというのが、なんとも見事で、目に見るようです。

『評釈』が、「出家人の世話は、一族でするのである。常陸宮の御子であれば、出家しても相当の地位が与えられるはずで、何かと物いりである、(ところが)兄君は『同じき法師といふ中にもたづきなく、この世を離れたる聖にものしたまひて(同じ法師という中でも処世の道を知らない、この世離れした僧でいらっしゃって)』(蓬生の巻第一章第三段)、(世話をするのは)妹の姫しかいない」と解説してくれています。

彼女の返事によれば、あろうことか、あの変わり者の兄の世話のために、源氏から贈られた物を次々に贈ってしまっていたのです。

その彼女も、さすがに兄・僧都のことを困ったと思っているのですが、世話をするのが自分の勤めと諦め、それを源氏に知られることを恥じ入っているようで、その気持がぎこちない笑いになっているのでしょう。

源氏は、開いた口がふさがらない、といったところで、この並外れた素直さ、純真さに、このごろとみに得意とするようになっていた軽口も出ず、それこそ「む、む」としか言えないような気分で、「この人相手ではとても実直で無骨な人になっていらっしゃる」のでした。気を取り直して、家司に命じて改めて衣類を届けさせます。

それにしても、この兄の「聖」ぶりは、驚くべきものがあります。しかし、いかにもありそうな話で、よくもまあ似たもの同士、「まったく鼻の赤い兄君」というわけです。

源氏は、軽口の代わりに、いささか自嘲的とも思われる歌をひとり口にして、苦笑いしながらでしょうか、索漠とした気持を胸に次へ行くのでした。》

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第一段 二条東院の末摘花を訪問~その1

【現代語訳】1

 このように騒がしい馬や車の音をも、遠く離れてお聞きになる御方々は、極楽浄土の蓮の中の世界で、まだ花が開かないで待っている心地もこのようなものかと、心穏やかではない様子である。

それ以上に、二条東の院に離れていらっしゃる御方々は、年月とともに、所在ない思いばかりが募るが、「世の憂きめ見えぬ山路(思う人を忘れて心の安らぐ山路)」に入った気持になって、薄情な方のお心を、お咎め申そうとは思わない。その他の不安で寂しいことは何もないので、仏道修行の方面の人は、それ以外のことに気を散らさず励み、仮名文字のさまざまの書物の学問にご熱心な方は、またその願いどおりになさり、生活面でもしっかりとした基盤があって、まったく希望どおりの生活である。忙しい数日を過ごしてからお越しになった。
 常陸宮の御方は、ご身分があるので、気の毒にお思いになって、人目に立派に見えるように、たいそう行き届いたお扱いをなさる。

以前、盛りに見えた御若髪も、年とともに衰えて行き、今はまして滝の淀みに負けない白髪の御横顔などを、気の毒とお思いになると、面と向かって対座なさらない。柳襲はやはり不似合いだと見えるのも、お召しになっている方のせいであろう。光沢のない黒い掻練の、さわさわ音がするほど張った一襲の上に、その織物の袿を着ていらっしゃるのが、とても寒そうでいたわしい感じである。襲の衣などは、どうしてしまったのだろうか、お鼻の色だけは、霞にも隠れることなく目立っているので、お心にもなくつい嘆息されなさって、わざわざ御几帳を引き直して隔てなさる。

かえって女君の方がそのようにはお思いにならず、今はこのようにやさしく変わらない愛情のほどを、安心に思い気を許してご信頼申していらっしゃるご様子は、いじらしく感じられる。

このような面でも、普通の身分の人とは違って、気の毒で悲しいお身の上の方だとお思いになると、かわいそうで、せめて私だけでもと、お心にかけていらっしゃるのも、めったにないことである。

 

《さて、六条院の曼荼羅巡礼が、日を改めてもう少し続きます。

正月、紫の上のいる東の邸は、源氏の居所ですから、当然賑わっています。また、東の邸も玉鬘の入った西の対には、彼女目当てのたくさんの公達が出入りします。

それに引き替え明石の御方や花散里のところは、源氏から篤い信頼や情愛を受けているといっても、それに比べればひっそりとしているようで、二人の気持ちは「心穏やかではない様子」です。

しかしそれにもまして、東院の末摘花と空蝉は、この正月の華やぎからすっかり忘れられた寂しい生活をしています。彼女たちは、身の程を知って、源氏を恨む気持など毛頭抱かず、生活面での心配がないだけでも満足しなければならないと思って、気ままな暮らしをしています。

そういうところにも源氏はともかく忘れずに訪ねていきます。

まずは末摘花ですが、行ってみると、すっかり白髪になっていて(この人の年齢は特定しがたいようですが、今源氏は三十六歳ですから、その相手をしたこの人が、「すっかり白髪」というのは、ちょっと解せません。面白く誇張したということなのでしょうか)見るのも気の毒で源氏は横を向いて座ります。折角立派な衣裳を贈ったのですが、彼女では似合いませんでした。「色合いを考えず、手あたりしだいに着たらし」く(『評釈』)、「寒そうでいたわしい感じ」です。そこに、相変わらずの赤い鼻先がとんがっていて、源氏は改めてげんなりしてしまい、「わざわざ御几帳を引き直して隔てなさる」のでした。

しかし女君の方は、そういう振る舞いにも一向頓着なく、ただ源氏が世話をしてくれて、今日はこうして訪ねてくれることに満足して、「やさしく変わらない愛情」と思い、すっかり安心し、信頼しているようです。

物事が分かっていないだけだとも言えますが、純粋で素直な人柄であることは間違いなく、最後の「いじらしく感じられる」は、作者の感想であると同時に、源氏の気持ちでもあるでしょう。》


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