【現代語訳】1

 つくづくと物思いに沈んでいても、晴らしようのない気持ちがするので、いつものように、気晴らしには西の対にお渡りになる。
 無造作に鬢がそそけ乱れてうちとけた袿姿で、笛を気軽に吹き鳴らしながらお立ち寄りになると、女君は、先程の花が露に濡れたような感じで寄り臥していらっしゃる様子が、かわいらしく可憐である。愛嬌がこぼれるようで、お帰りになっていながら早くお渡り下さらないのが何となく恨めしかったので、いつもと違って、すねていらっしゃるのであろう、源氏が端の方に座って、
「こちらへ」とおっしゃるが、素知らぬ顔で、
「入りぬる磯の(お目にかかることが少なくて)」と口ずさんで、口を覆っていらっしゃる様子がたいそう色っぽくてかわいらしい。
「おや憎らしい。このようなことをおっしゃるようになりましたね。『みるめに飽く(しょっちゅう会っている)』のは、よくないことですよ」と言って、人を召して琴を取り寄せてお弾かせ申し上げなさる。
「箏の琴は、中の細緒が切れやすいのが厄介だね」と言って、平調に下げて調子をお整えになる。調子合わせの小曲だけ弾いて、押しやりなさると、いつまでもすねてもいられず、とてもかわいらしくお弾きになる。
 お小さいからだで、左手をさしのべて弦を揺らしなさる手つきがとてもかわいらしいので、愛しいとお思いになって、笛吹き鳴らしながらお教えになる。とても賢くて難しい調子などを、たった一度で習得なさる。何事につけても才長けたご気性を、思いが叶うとお思いになる。「保曽呂具世利」という曲目は、名前は嫌だが、素晴らしくちょっとお吹きになると、合わせて未熟だが拍子を間違えず上手のようである。

《葵の上、藤壺と語られてきて、ここは第二章第一段に対応して源氏と紫の君の場面です。

源氏は、本当は申し分のない女性だと承知していながら、うち解けることのできない葵の上と、お互いに強く惹かれ合い許し合いながら、立場上決して晴れて結ばれることのできない藤壺という二人に、日ごろ屈託する思いを抱き続けているのですが、その彼にとってこの姫は、かけがえのない心遣りの相手です。

あの第二章第一段から半年以上の日数が過ぎたでしょうか、比べると、「女君」は、二条院の暮らしにも、源氏にもずいぶんなじんだ様子で、相変わらず幼い様子描かれてはいますが、何と言ってもその振る舞いには、すでにさまざまに「思い人」の趣があります。

以前は源氏の夜のお出かけには「お後を慕いなさる時など」があり、また「とてもひどく塞ぎ込んだりなさる」といった具合だったのですが、このごろでは、すねてみせたり、色っぽい品を作ったりと、すっかり「女君」の風情です。『評釈』が「愛嬌がこぼれるようだ(原文・愛嬌こぼるるやうにて)」はこれまで、源氏にしか使われなかった言葉だと指摘しています。

「『入りぬる磯の』と口ずさんで、口を覆っていらっしゃる」などは、到底十歳そこそこの少女とは思われず、作者が何か間違ったのではないかと思われるほどです。

そして、前は「ありとあらゆるお稽古事をお教え申し上げなさる」とあったのですが、ここではそれだけではなく、源氏がふと吹いた笛にも即興で合わせるほどに、既に自立した琴のセンスも示し、それなりの技量も身につけているようです。

それでいてしかも、「お小さいからだで、左手をさしのべて弦を揺らしなさる手つき」などは、子供々々して「とてもかわいらしい」のです。

 源氏は先の二人の女性との憂いをすっかり忘れて、「思いが叶うとお思いになる」のでした。》


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