【現代語訳】5

 源氏の君は、二、三日、宮中へも参内なさらず、この人を手懐けようとお相手申し上げなさる。そのまま手本にとのお考えか、手習いやお絵描きなど、いろいろと書いては、御覧に入れなさる。とても素晴らしくお書き集めになった。姫は、「武蔵野といへばかこたれぬ」と紫の紙にお書きになった、墨の具合がとても格別なのを、手に取って御覧になっていらっしゃった。少し小さく、

「 ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを

(まだ根は見たことがありませんが、愛しく思われます、武蔵野の露に難儀して訪ねられないでいる紫にゆかりの草を~まだ共寝してはいませんが、愛しく思われます、逢おうにも逢えない紫・藤壺ゆかりのあなたを)」

とある。
「さあ、あなたもお書きなさい」と言うと、
「まだ、うまく書けません」と言って、顔を見上げていらっしゃるのが、無邪気でかわいらしいので、つい微笑まれて、

「うまくなくても、まったく書かないのは好くありません。教えて上げましょうね」とおっしゃると、ちょっと横を向いてお書きになる手つきや、筆をお持ちになる様子があどけないのも、かわいらしくてたまらないので、我ながら不思議だとお思いになる。

「書き損ってしまった」と恥ずかしがってお隠しになるのを、無理に御覧になると、

「 かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらむ

(恨み言を言われる理由が分かりません、わたしはどのような方のゆかりなのでしょう)」

と、とても幼稚だが、将来の成長が思いやられて、ふっくらとお書きになっている。亡くなった尼君の筆跡に似ているのであった。「当世風の手本を習ったならば、とても良くお書きになるだろう」と御覧になる。

 お人形なども、特別に御殿をいくつも造り並べて、一緒に遊んでは、この上ない憂さ晴らしの相手である。

 

《いよいよ二人での暮らしが始まり、源氏は早速まず手習いから教育を始めます。

「武蔵野といへばかこたれぬ」については、『評釈』が次のように注を載せています。

「古今六帖五、紫、『知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ』(行ったこともないが、武蔵野と聞くとためいきが出る。そうだ、そんななのは、そこにはえている紫草なつかしいからだ)。源氏は、『紫』に藤壺の宮をよそえ、その姪の若草の君をもなつかしく思う意味で、手習いに書いたのである」

紫草は、根が紫色であるところからの名前で、染料の材料とされていました。武蔵野がその産地で、武蔵野といえば紫草を連想したと言われます。

藤壺の藤の花が紫で、その姪に当たる姫は紫のゆかり、そこで後に紫の上と呼ばれることになります。

源氏はこの歌を「紫の紙」に書き、その脇に小さく自分の本音を座興に、しかし姫には何のことか意味の分からない歌を書きました。

この屋敷がすっかり気に入ってしまった様子の姫は、源氏に対して大変素直で、自分の元の家や少納言を恋うこともありません。彼女自身にとってはこれまでがそんなに居心地が悪かったとも思われませんので、あまりに早い順応ぶりに、十歳そこそこの少女としては少し違和感がありますが、作者としてはそれもこれも、源氏の偉大さ、その魅力と言いたいのでしょう。

それを承認して読めば、ここに描かれる姫の様子は確かにどこを取っても大変にかわいらしく、いかにも素直な女の子と思われます。特に一度「恥じて隠し」たものを、更に求められて結局羞じらいながら見せる、というあたり、いかに源氏を信頼し甘える気持ちでいるかということが察せられて、いい場面です。

その詠んだ歌は、十歳の、文字さえまだ手習いの段階の娘にしては、見事すぎますが、源氏にまさるとも劣らないヒロインのことですから、大目に見ることにしましょう。》

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