私たちは現実の人間関係の中で、いろいろ楽しい思いをしたり、ありがたく思ったりすることはよくありますが、心を打たれ、人間というものそのものを理解するというようなことは、そう多くはありません。
 それは、現実の人間はあまりに複雑で、というよりもそういうことを思うには、自分との関係性とか相手の背後の事情などのあまりに多くの夾雑物が挟まっていて、こちらの視点も揺れるし、相手の統一的姿が見えづらく、言ってしまえば相手が不純物として見えるからなのだと思います。
 それはまた、自分自身を見つめる時にでも、同じようなことが言えます。

当節は、人間、ありのままが一番いいという考え方があって、「世界に一つだけの花」という歌は「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」と歌いますが、それでも、だからただそこにいればいいのではなく、「一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」というのであって、それは逆に、「(自分の)花を咲かせる」こと、純粋に自分として見事に生きることが、実は普通の人にとってどれほど難しいかという思いを秘めてもいるのです。


 もちろん、純粋というのは単純ということではありません。自分の純粋を守るために、どれほどの不純が必要であることか。しかしそれを不純と感じることこそが、また純粋であることの証しでもあるのであって、そういう逆説が、求める思いが真摯であればあるほど深い悲劇を生むことになります。優れた物語の多くが悲劇である所以です。

優れた文学作品の登場人物は、多分、言わば鉱物の結晶のように純粋に磨き上げられているのです。実在する偉大な人物というのも、あるいは何等かの意味で純粋な方々なのかもしれません。

私たちは作品を読みながら、そういう、必死で自分らしく生きようとする(そして多くそれに挫折する、または守ったが故に悲劇を迎える)人物達に出会って、初めて本当の人間に出会ったという気がして、彼の活躍する世界の方を、現実より魅力的な現実と感じるわけです。その世界は、当然現実の世界よりも純粋化されていて、しかも有機的に構成されています。多分私たちは心の奥でそういう世界を求めているのです。


 現実の人間は「類型」であり、文学の人物は「典型」だと、昔、中村光夫の本(『風俗小説論』だったでしょうか)で読みましたが、分かりやすい区別だと思います。

典型というようなものは現実にはめったに存在しませんから、それは本当の(つまり、生の、ということですが)人間理解ではないとも言えそうですが、もしそういうふうに言う人がいれば、それは多分文学に感銘したことのない、文学の毒に触れたことのない人なのではないでしょうか。

優れた作家は、言葉でその夾雑物をそぎ落として、あるいは必要な強調をして、純粋な結晶を描き出します。

それは、仏師が丸木の中に彼にだけ見えている仏像を彫り出すように(本当にそうであるかどうかは知りませんが)、また睡蓮の葉に水面を覆われた池から不要の葉っぱを取り除いて美しい絵に仕立て上げる画家のように、そしてまた、掃除を終えたばかりの庭にわざと一、二枚の落葉を散らして秋を演出した法師のように、です。

そしてそういう典型が、源氏物語の場合、例えば近代の「暗夜行路」、「夜明け前」、「細雪」などよりも、より隅々の登場人物達まで(数が多いという意味ではなく、より緻密に、という意味です)、生き生きとより鮮明により美しく描かれて、その結果、そこにそういう人物たちによる仮想の一つの社会(世界)が創造されているように思われて、読者はその見事な人間たちの織りなす、美しい(あるいは痛切な、愉快な、暖かな)世界に引き込まれて、ひととき一緒に生きたような思いを抱くのです。

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