この物語の結末を思う時、すぐに三島由紀夫著『豊饒の海』の結末を思い出します。私は、「奔馬」以降の話の意味がよく分からないままに、ともかくも「天人五衰」の終わりまで読んできて、その最後の場面で、「門跡」(かつてのヒロイン綾倉聡子)が本多に言った「松枝さん(かつての聡子の恋人)といふ方は、存じませんな」という言葉に突然ぶち当たって、ちょっと大袈裟に言うと、天地がひっくり返ったかと思うほど驚いたものでした。

本多は亡くなった親友・松枝の面影を抱いて、生涯の六十年をかけてその生まれ変わりの人物を追い求めて来たのであり、私もまたそういう気持で本多とともに物語の時を過ごしていたのですから、「聡子」にそういうことを言われて、その根底が覆る思いでした。

私は何か読み間違いをしてきたのかと、急いで五、六十ページほどを読み返しましたが、読み間違いではありませんでした。

それを読んだのは冬籠もりの離島においてでしたが、それから一週間ほど、私は、無人島に放り出されたような、あるいは宙に浮いたような感覚で過ごしたものです。

 「春の雪」に始まってそれまでの長い物語の一切が空無に帰したようで、それはつまり、この現実の人の一生、いやこの社会自体が、幻想になってしまうかのような感覚でした。

 この「天人五衰」は、彼の死が報じられたのちに手にしたのでした(巻末にある脱稿の日付は、彼の凄惨な死と同じ日です)が、後に、こんな物語を書いたら、その手立てはともあれ、死ぬしかないのかも知れない、などとも、脈絡はないながら、思ったものでした。

 今、この「夢浮橋」を読み終えて、似たような感覚があります。

 源氏や紫の上の時代は、夢のかなたとなり、薫がその謙虚な青春をかけた大君もなく、今また浮舟もあいまいのかなたに去ってしまいました。

 もちろん浮舟はかの「門跡」のような認識をもって小君に臨んだわけでもありませんし、薫も本多のように「それなら、勲もゐなかったことになる、ジン・ジャンもゐなかったことになる。…そのうえ、ひょっとしたら、この私ですらも…」というようなことを意識したわけではありません。

ここの二人はもっと現実的で、いわば写実的人物として描かれています。

しかしひょっとすると、それは時代の差に過ぎないなのであって、この場面を描いた紫式部の思いを現代風に翻訳すると、同じようなことになるのではないか、そんなことを思ってみます。

 『豊饒の海』は「庭は日ざかりの日を浴びてしんとしている。…」と、ただそこにある光景を描いて結ばれ、『源氏物語』は「人の隠しすゑたるにやあらむ」と、人為を語る言葉という違いはありますが、これもまた、ただ平凡なあるがままの生の現実を語って結びます。