後書きの前書きといったところで、まことに余計な話ですが、昔、北杜夫著『さびしい王様』を開いたことがありまして、そこには、巻頭、めくってもめくって「前書き」が続き、確か六つに及んだと記憶します。しかも本編の物語を読み終わると、そこにはまたしても、めくってもめくっても続く「あとがき」があり、これも六つでした。

そのこと自体の奇抜なアイデイアと、語られる饒舌とウイット、ギャグに、抱腹絶倒、と言うほどではないまでも、それに近い感銘を受けて、本文以上に印象に残っています。

及ぶべくもなく、以下は全くの余談、蛇足ですが、ともかくもここまで名にし負う『源氏物語』を読んで来ましたので、記念になにがしかのことを語りたく、誠に勝手ながら、くだくだと「余段」を連ねさせていただきます。

 

 まずは、薫の「(小野の浮舟は)誰かが隠し置いているのであろうか」という思いについてです。前段のとおり、諸家に大変評判の悪い「思い」で、多く、「低劣な俗物的心情」とされるようです。

 しかし、これも前述したように、浮舟の痛切な心中は全く彼女の心中においてだけ存在したのであって、彼女はついにそれを誰にも明かさなかったのです。彼女の側近であった右近でさえ、彼女の前で自分の姉の二心による人の生き死にの話をしたくらいに、彼女は自分の悩みの深さを隠しおおせたのですから、失踪の前一年半会うことのなかった薫には分かるはずもなかったでしょう。

 また一方で、ここまで薫に浮舟の中心的な相手役を勤めさせた作者が、ここに至って、実は薫はつまらない男だったというはずがないように思います。

とすると、作者は、薫のこの想像を、特別怪しからん思いだとは思わず、少なくとも普通に男が抱く思いとして語っているのだろう、ということになりそうです。

ただ、二人の思いの隔たりは明らかです。作者はがどうしてこうも二人の思いをかけ離れたものとして語ったか、というところに移ります。

 その点について、『光る』が、最後が「と本にございますようです」とあることも含めて、次のように言います。「丸谷・第一に、小君が会うことを断られて茫然とする。薫がその知らせを受けて茫然とする。…読者としてはちょうど二枚のフィルターを重ねて世界を見るような感じなんですね。…さらにいえば、もう一枚のフィルターが入って、『と本にある』で三枚になる。真実はものすごく奥の奥にあるという感じになるんですね。」

 薫にとって浮舟の死は、亡骸を見ていないということもあって、初めから不可解なものでしたが、今度は、小君の話で、またその生が不可解なものに思えています。

 それは、この世の人の営みが、実はまことにあやふやなものであることを思わせます。

 薫は、ついに浮舟の思いに思い至ることがありません。

 また、匂宮は、あれほど情熱を燃やして宇治に忍んで行ったにもかかわらず、その後は、中宮に妨げられたであろうとは言え、具体的に浮舟に手を延べることは絶えてありません。

 「夢の浮橋」という言葉は、はるか前、光源氏によって口ずさまれた「世の中は夢の渡りの浮橋かうちわたりつつものをこそ思へ」という古歌(薄雲の巻第二章第三段)に基づく、「作者の造語であろう」(『集成』)とされますが、すべては夢幻、光源氏の実質的死が「幻」の巻に語られたように、この宇治の物語もすべては「夢の浮橋」として語られたのだ、と考えることもできるのではないでしょうか。『光る』の言う、この言葉の「縹緲とした感じ」(夢浮橋の巻頭)とは、あるいはそういう感じなのかと思ったりします。

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