【現代語訳】

「その住んでいるという山里はどの辺であろうか。どのようにして、体裁悪くなく訪ね寄ることができるだろうか。僧都に会った上で、確かな様子を聞き合わせるなどして、ともかく訪ねるのがよかろう」などと、ただ、このことばかりを寝ても覚めてもお考えになる。
 毎月の八日は、必ず仏事をおさせになるので、薬師仏にご寄進申し上げなさろうということでお出かけになるついでに、根本中堂には、時々お参りになるのだった。そこからそのまま横川においでになろうとお考えになって、あの弟の童である者を、連れておいでになる。

「その人たちには、すぐには知らせまい。その時の状況を見てからにしよう」とお思いになるが、再会した時の夢のような心地の上につけて、しみじみとした感慨を加えようというつもりであったのだろうか。

そうはいっても、

「その人だと分かったものの、みすぼらしい姿で、尼姿の人たちの中に暮らしていて、嫌なことを耳にしたりするのは、ひどくつらいことであろう」と、いろいろと道すがら思い乱れなさったことだろうか。

 

《薫は、ともかく浮舟を訪ねることにしました。

 何と、縁というのは不思議なもので、彼は毎月比叡山で供養をさせていたようで、時々は自身でもお参りをしていたようです。

 毎月というのは大変な頻度ですからそれなら、そういうことがこれまでの話に少しくらい出てきていてもよさそうなものですが、機会がなかったのでしょうか、まあ、今更しかたがありません。

 ある月のその日、それは、浮舟の一周忌法要を済ませて間もない頃です(第五段)から、四月か五月の八日ということになるでしょうか、彼はお山に登ります。

 本当なら、浮舟が生きているのかも知れないと家族みんなに知らせてやるのがいいのでしょうが、何といっても一度は死んだことになっているので、確かめた後でなければ伝えられないという気持でしょうか、彼は、「その時(実際に会ってみたうえ、ということなのでしょう)の状況を見てからにしよう」と、やめておきました。

しかし、浮舟の弟だけを連れて行きます。

そこで作者は、ただ、自分だけで行くよりも、身内の誰かがいた方が、彼は、再会のドラマテイックな場面がより「しみじみとした」ものになると考えたのだろうか、と一言言い添えます。

妙に演出効果を狙っていると、薫を揶揄したようにも聞こえる言葉ですが、そう考えては薫のイメージが崩れますから、親しい身内がいる方が心を開き易いだろうという気配りなのだ、という意味に考える方がいいでしょう。、

しかし一方で、その時の浮舟の暮らしがあまりにひどかったり、「嫌なことを耳にしたりする」(『集成』は「失踪後、何か男関係でもあったというようなこと」と言います)ことになったりしたらどうしようかと案じる気持ちもあって、さまざまに心を乱しながら、道をたどって行きました。

こうして、物語は、いよいよごく短い最終章に入ることになります。》

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