【現代語訳】

 年が改まった。春の兆しも見えず、氷が張りつめた川の水が音を立てないのまでが心細くて、「君にぞまどふ」とおっしゃった方は、嫌だとすっかり思い捨てていたが、やはりその当時のことなどは忘れていない。
「 かきくらす野山の雪をながめてもふりにしことぞ今日も悲しき

(降りしきる野山の雪を眺めていても、昔のことが今日も悲しく思い出される)」
などと、いつものように、慰めの手習いをお勤めの合間になさる。

「私がいなくなって、年も変わったが、思い出す人もきっといるだろう」などと、思い出す時も多い。

若菜を粗末な籠に入れて、人が持って来たのを、尼君が見て、
「 山里の雪間の若菜摘みはやしなほ生ひさきのたのまるるかな

(山里の雪の間に生えた若菜を摘み祝っては、やはりあなたの将来が期待されます)」
と言って、こちらに差し上げなさったので、
「 雪ふかき野辺の若菜も今よりは君がためにぞ年もつむべき

(雪の深い野辺の若菜も今日からは、あなた様のために長寿を祈って摘んで、長生き

しようと思います)」
とあるのを、

「きっとそのようにお思いであろう」と感慨深くなるのも、

「これがお世話しがいのあるお姿と思えたら」と、本気でお泣きになる。
 寝室の近くの紅梅が色も香も昔と変わらないのを、「春や昔の」と、他の花よりもこの花に愛着を感じるのは、「飽かざりし匂い(はかなかった宮との逢瀬)」が忘れられなかったからあろうか。

後夜に閼伽を奉りなさる。身分の低い尼で少し若いのがいるのを、呼び出して折らせると、恨みがましく散るにつけて、ますます匂って来るので、
「 袖ふれし人こそ見えね花の香のそれかとにほふ春のあけぼの

(袖を触れ合った人の姿は見えないが、花の香が、あの人の香と同じように匂って来

る、春の夜明けよ)」

 

《ちょっともやもやの感じで暮れた、寂しい山里の年が、やはり「心細く」明けました。

「君にぞまどふ」は、ちょうど一年前、宇治の隠家で匂宮と過ごした時の宮の歌です(浮舟の巻第四章第五段)。最近の浮舟は、薫のことをこそ思え、匂宮については「すっかり思い捨てていた」(第四章第五段)はずだったのですが、それでもこういう氷の川の光景を見ると、やはりあの日のことが思い出されて切ない気がする、と言います。

『評釈』が「その思い出が恋しいというわけではないが」と言っていますから、そうなのでしょうが、すると、この手習の歌の「悲しき」は、あの一時の心の惑いさえなかったならば、という臍を噛む悔いの思い、ということになるでしょうか。しかし、「忘れていない(原文・忘れず)」という言葉からは、恋しいという気持を除き切れない感じです。次の「(私を)思い出す人」も、母や乳母が本命なのでしょうが、やはり匂宮が捨てきれない感じです。

「お勤めの合間に」、「いつものように」そうした思いを書きつけるというのでは、「お勤め」の効験はいかがかと思われますが、絵としては悪くありません。いや、あるいは、そういう自分の意志ではいかんともしがたい煩悩を抱えての勤行こそが、弥陀の本願を授かる因縁であるのかも知れません。

 人が長寿を願う若菜を届けてくれました。尼君はそれを見ても思うのは娘代わりの浮舟のことです。出家してしまったのは残念だけれど、どうかいつまでも元気でいておくれ、そしてできることなら還俗して誰かいい方と…。

 浮舟の返歌はなかなか複雑のようで、『評釈』が三点を挙げて解説しています。まず、「年も」は「としも」で、「と」は引用、「しも」を強意とする説があると言い、しかし強意は「ぞ」と重複するので、この説は採らないとします。確かに上の句から通しての意味を取ろうとすると、「年も」の処理に困る感じで「としも」なら分かりやすいのですが、下の句だけで考えると「年もつむべき」の意味はぜひ生かしたいところです。

 次に「雪ふかき野辺の若菜」は「春のけはいすらないこの心憂きわが身」を裏の意味とするという宣長説を挙げて、そのとおりだろうとします。

 そこでこの歌は、表の意味がおおむねここに挙げたもので、裏の意味として「この心憂い身の私も、今年からはあなたのいられる(「おられる」が普通ではないでしょうか)ことで生き続けてゆきましょう」となる、と言います。裏の意味の下の句の解釈は分かりにくいので、私流に言い換えれば、「今年からは、あなたのために長生きすることにしましょう」ということになりましょうか。

 そうすると、尼君の歌への真っすぐな返歌になりそうです。

 そして尼君が「そのようにお思いであろう(原文・さぞおぼすらむ)」は、「『雪深き野べの若菜』として生きてゆく、との意に対していったもの」(『評釈』)ということになります。

 別の一日のことでしょうか、庭の紅梅に、またしても匂宮を思い出します。「春や昔の」はもちろん梅の花盛りに詠まれたという「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(「古今集」747)です。この歌は、月も春(梅の花)も私も何もかも昔のままなのに、あの人がいないことだけが昔と違う、とその痛切な喪失感・空虚感を詠んでいるのですが、その悲哀が透明感を感じさせるのに対して、ここでは逆に自分の身の上だけがすっかり変わっているのであって、その分、悲哀は悔恨に傾き、生々しく噛みしめられている、と言えましょうか。》

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