【現代語訳】

 そうはいってもこのような古風な気質とは不似合いに、当世風に気取っては、下手な歌を詠みたがってはしゃいでいる様子は、とても不安に思われる。
「この上なく嫌な身の上であったのだと見極めた命も、あきれるくらい長らえて、どのようなふうにさまよって行くのだろう。全く亡くなった者として誰からもすっかり忘れられて終わりたい」と思って臥せっていらっしゃると、中将は、もともと何か物思いの種があるのだろうか、とてもひどくため息をつき、そっと笛を吹き鳴らして、「鹿の鳴く声に(秋はことにわびしいことだ)」などと独り言を言う感じは、ほんとうに弁えのない人ではなさそうである。
「過ぎ去った昔が思い出されるにつけても、かえって心が乱れますし、今新たに慕わしいと思ってくれるような人もまたいそうもないので、ここを『見えぬ山路(つらいことのない山奥)』とも思うことができません」と、恨めしそうにしてお帰りになろうとする時に、尼君が、
「どうして、『あたら夜(月と花の美しい夜)』を御覧の途中でお帰りになるのですか」と言って、にじり出ていらっしゃった。
「いえ。『をちなる里(あちらの方のお気持ち)』も分かりましたので」と軽く言って、

「あまり好色めいて振る舞うのも、やはり具合が悪い。ほんのちらっと見えた姿が、目にとまったほどで、所在ない心の慰めに思い出したのだが、あまりによそよそしくて、奥ゆかしい感じ過ぎるのも場所柄にも似合わず興醒めな感じがする」と思うので、帰ってしまおうとするのを、笛の音も物足りなく、ますます思われて、
「 深き夜の月をあはれと見ぬ人や山の端ちかきやどにとまらぬ

(夜更けの月をしみじみと御覧にならない方が、山の端に近いこの宿にお泊まりにな

らないのでしょうか)」
と、どこか整わない歌を、
「このように、申し上げていらっしゃいます」と言うと、心をときめかして、
「 山の端に入るまで月をながめみむ閨の板間もしるしありとや

(山の端に隠れるまで月を眺めましょう、その効あってお目にかかれようかと)」
などと言っていると、この大尼君が、笛の音をかすかに聞きつけたので、老齢ではいてもやはり心惹かれて出て来た。

 

《浮舟は、何とか中将と結ばれてくれないかと「引き動かさんばかりに」(前段)勧める尼たちを、冷たい視線で見ています。柄にもなく下手な歌まで詠んで恋の取り持ちをしようと、はしゃいで、ひょっとして中将を部屋に手引きでもされたらどうしよう…。

 彼女は相変わらず、というか、ますますわが運命の拙さに気持ちが沈み込んでしまいます。

 そういうところに中将は、こちらも思い屈しているふうに「ため息をつき、そっと笛を吹き鳴らして」、「独り言」を漏らします。

 このあたり、『評釈』は、浮舟に敬語を使いながら、中将には「それまでのように敬語が用いられていない」として、「すこし戯画化されている」と言いますが、「ほんとうに弁えのない人ではなさそう」だと言うのですから、そうばかりでもなさそうです。

 「過ぎ去った昔」は、亡くなった妻との昔の思い出、それを思ってみても、今またこの山里を訪ねても、つらい思いをするばかりなので、と言って、中将はもう帰ろうとしますので、あわてて尼君が出てきて、何とか引き留めます。

 歌を引きながらのやりとりは、気持ちの直接的な表現を避けて、話が穏やかになって、こういう場合は好都合のようにも見えますが、また、隔靴掻痒という感じもあります。「をちなる里」は、諸注、明らかに引き歌があるはずだが、不詳と言います。

 中将の「場所柄にも似合わず興醒め」は、ここでも「陋屋に美女を見出す」(第四段)という当時のロマンが期待されていたことを示しています。「と思うので(原文・と思へば)」とありますから、彼は本当にそう思ったと作者は言っているわけですし、「帰ってしまおう(原文・帰りなむ)」と強く意思表示していますから、ここは本気で帰るつもりのようです。

 尼君はそれでもなお引き留めようと、姫君は「山の端ちかきやどにとまらぬ」と言っていますよと、「とっさにいつわって言」います(『集成』)。姫君が泊ってほしいと言っているのなら、話は違うと、中将は歌を返します。「『板間』は、板葺き屋根の板と板の隙間」(『集成』)で、「月の光がしのびこむように、自分も入れてもらえることもあろうかと待っている」(『評釈』)ということのようです。ともあれ、中将は残ることを承諾しました。その代わり、逢って下さいよ…。

 そんなやりとりをしていると、そこに突然大尼君が出て来ました。

 ところで、冒頭の「そうはいっても」の気持が分かりません。「さすがにかかる古代の心どもにはありつかず、今めきつつ」が原文ですが、諸注は「さすがにこんな年寄りの昔気質には不似合いに、当世風に気取っては」(『集成』)、「そうはいっても、こうした古風な気持のままではなく、うきうきして」(『評釈』)、「こんな昔気質な人たちには不似合いに、さすがに当世風のところがあって」(『谷崎』)とあって、ばらばらに見えます。

 『辞典』は「さすが」を「当然予想されるのとは相違矛盾する事態が現れた場合に使う語」と言います。矛盾の一方は「かかる古代の心ども」で、それに「矛盾」しているのは、「今めきつつ…」だとすると、「そうはいっても」という訳は変で、そのまま「さすがに」で訳すのがよさそうですが。》

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