【現代語訳】

 尼君の昔の婿の君は、今は中将におなりになっていたが、その弟の禅師の君で僧都のお側にいらっしゃった方が山籠もりなさっているのを尋ねるために、兄弟の公達がよく山に登るのであった。
 横川に行く道のついでということで中将がここにいらっしゃった。

前駆が先払いして、身分高そうな男が入ってくるのを内から見て、人目を避けておいでになったあの方のご様子が、鮮やかに思い出される。
 ここもまことに心細い住まいの所在なさであるが、住み馴れた人びとは、こぎれいに興趣深く手入れして、垣根に植えた撫子が美しく、女郎花や桔梗などが咲き初めたところに、色とりどりの狩衣姿の男どもの若い人が大勢連れて、君も同じ装束で、南面に招じ入れたので、あたりを眺めて坐っている。年齢は二十七、八歳くらいで、しっかり大人びて、嗜みのなくはない態度が身についている。
 尼君は、襖障子口に几帳を立てて、お会いなさる。何より先に泣き出して、
「何年にもなりますと、過ぎ去った当時がますます遠くなるばかりでございますが、山里の光としてやはりお待ち申し上げております気持ちが、忘れず続いておりますのが、一方では不思議に存じられます」とおっしゃると、
「心の中ではしみじみと、過ぎ去った当時のことが、思い出されないことはありませんが、ひたすら俗世を離れたご生活なので、ついご遠慮申し上げまして。山籠もり生活も羨ましく、よく出かけてきますが、同じことならなどと同行したがる人びとに、邪魔されるような恰好でおりました。今日は、すっかり断って参りました」とおっしゃる。
「山籠もり生活のお羨みは、かえって当世風の物真似のようです。故人をお忘れにならないお気持ちも、世間の風潮にお染まりにならなかったのだと、一方ならず厚く存じられます折がたびたびです」などと言う。

 

《浮舟はこここそが自分の世を逃れて暮らす終の棲家かと思っているのですが、しかし、人の世の暮らしをしている以上、そういうところにも、また新たな人の出入りがあるもので、なかなか逃れきることは難しいようです。そこで新しい人物の登場です。

 尼君の亡き娘のかつての夫君の弟君に禅師として横川の僧都のもとにいる人がいました。その人が今僧都とともに山籠もりの修行中で、兄弟たちがその陣中見舞いということで、おりおり横川にやって来ていたのでした。

 そして今日はその婿の君がやって来ました。都から横川への道は「当時近江へ出て東側からのぼるのが便利であったらしい」(『評釈』)のですが、今日のこの婿の君は、この小野にゆかりの尼君がいるからということで、西側からの道をのぼって訪ねることにしたのでしょうか。そうだとすると、なかなかできた若者のようです。

 家に入ってくるその姿を「内から見て」というのは浮舟だとされます。彼女は、特に外からの人に見られるのを極力避けようとしていたはずで、自分から覗いて見るというのは解せない気もしますが、声高な前駆の声に思わず見てしまったのでしょうか、見るなりその貴公子ぶりに、ふと宇治に通って来た貴公子をありありと思い出してしまいました。諸注、それは匂宮ではなくて「薫を意味する」(『評釈』)と言います。「前駆が先払いして、…人目を避けておいでになった」のは薫で、匂宮の方は、夜、強引に押しかけて来る、という印象なのでしょう。

 折しも秋の野の花の盛りで、その中を進んでくる姿は狩衣の色も映え、また「しっかり大人びて、嗜みのなくはない」立派な様子で、年案配もまったく同じくらいです。

「先払いして」とか「色とりどりの狩衣姿の男どもの若い人が大勢連れて」というのは、先の「人目を避けて」と合わない気がしますが、これで「避けて」いる方なのでしょう。

 「あたり(秋の花々の咲き乱れる庭先)を眺めて坐っている。…しっかり大人びて、嗜みのなくはない態度が身についている」と、まことに絵になる若者です。

 尼君との間に、型どおりの、しかしきちんとした挨拶が交わされますが、尼君の「山籠もり生活のお羨みは、かえって当世風の物真似のよう」は、「やはり非難するきもちがあるのだろう」(『評釈』)と思われます。娘を失った悲しみを依然として抱えたままで、決して羨まれるような境遇にはない彼女としては、あまりに型どおりの挨拶の言葉に感じられて、もう少しその心情に寄り添った言葉がほしかったのかも知れません。

あなたの「世間の風潮にお染まりにならな」いところをこそ信頼申しているのですよと、親しい間柄での母親代わりのような気持ちからの、からかいという程度のものですが、また一方それによって、あなたは軽薄な方ではない、とほめることにもなっています。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ