【現代語訳】

 涼しくなったといって、后宮は、内裏に帰参なさろうとするので、
「秋の盛りというのに、紅葉の季節を見ないというのは」などと、若い女房たちは残念がって、みな参集している時である。池の水に親しみ月を賞美して、管弦の遊びがひっきりなしに催され、いつもより華やかなので、この宮は、このようなことでは実にこの上なくお楽しみになる。朝夕に見慣れていても、やはり今初めて見る初花のようなお姿でしていらっしゃるが、大将の君は、それほどにはお立ち入りなさらないので、気のおけるうちとけにくい方だと、みな思っている。
 いつものようにお二方が参上なさって御前にいらっしゃる時に、あの侍従は物蔭から覗いて拝すると、
「どちらの方なりとも縁付いて、幸運な運勢に思えるご様子でこの世に生きておいでだったらよかったのに。驚くほどあっけなく残念なお心であったよ」などと、他人にはあの辺のことは少しも知っている顔をして言ったりしないことなので、自分一人で尽きせず胸を痛めている。

宮は、内裏のお話などこまごまとお話申し上げなさるので、もうお一方はお立ちになる。

「見つけられ申すまい。もう暫くの間は、ご一周忌も待たないで薄情な人だ、と思われ申すまい」と思って、隠れた。

 

《いつの間にか夏が過ぎ、秋を迎えて、浮舟の死亡(失踪)から三か月が立ちます。六条院の女房たちは、居心地の良さに、中宮が宮廷にお帰りになろうとしても、秋の盛りはこの院で過ごすのが好いでしょうなど、何やかやと引き止めて、毎日を華やかににぎやかに楽しんでいます。

 この人たちは知らないことですが、その光景は浮舟の悲劇がすっかり過去のものになったことを思わせます。

 そこに、元来派手好みの匂宮も加わって、「このようなことでは実にこの上なくお楽しみになりる」ます。「今初めて見る初花のようなお姿」だというのは、当時言い慣らされた言葉ではないかという気がしますが、印象的な言い方です。はっと人目を引く新鮮な美しさ、というような感じかと思われます。この人には、もうすっかり浮舟のことは忘れられたようです。

 一方薫は、「それほどにはお立ち入り」しないでいます。原文は「入り立ち」で、『集成』が「奥向きまでお出入り」することとしています。中宮は匂宮からすれば母で出入り自由なのでしょうが、薫からすれば姉と言っても年は離れ、しかも臣下で、また薫の人柄もあって、あまりこういう場所には出入りしていないということのようで、数日前に女一の宮の所に行った折(第五章第六段)の「いかにもたいへん姿よくこの上ない振る舞い」とは、ちょっと様子が違うようです。こちらはまだ傷心が癒されていないということもあるのでしょうか。

 そんな二人を侍従が垣間見て、改めて残念な思いを抱くのですが、思いを分かち合う相手もなく、ただ一人で胸の中で噛みしめています。

 匂宮が「内裏での話をこまごまと」中宮に話し始めたの見て、薫は席を立ちました。人が話を始めたところで立つのは、ちょっと失礼な振る舞いのようにも思われますが、親子の対話になったので席を外したのだ、と考えると、ありそうな場面です。

 薫は侍従のいる方にやってきたようで、彼女は、「ご一周忌も待たないで薄情な人だ」と思われることを恐れて、そっと隠れてやり過ごします。宇治を捨ててこちらに出仕したことを恥じている、ということなのでしょう。

この人も、明るい社会に出仕はしたものの、なかなかすんなりとそこになじむというわけにいかないでいるようです。

なお、初めの「秋の盛りというのに」は独断の私案で、原文はただ「秋の盛り」です。『集成』は「の」、『評釈』は「は」、『谷崎』は「を待ちまして」と続けています。》

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