【現代語訳】

 雨のひどい降りに紛れて、母君もお越しになった。まったく何とも言いようなく、
目の前で亡くなった悲しさは、どんなに悲しくても世の中の常で、いくらでもあることだ。これは、いったいどうしたことか」とおろおろしている。このようないろいろな出来事が込み合って、ひどく物思いなさっていたとは知らないので、身をお投げになっただろうとは思いも寄らず
鬼が喰ったのだろうか、狐のような魔物がさらっていったのだろうか。まことに昔物語の妙な事件の例にだったか、そのような事も言っていた」と思い出す。
「それとも、あの恐ろしいとお思い申し上げる方の所で、意地悪な乳母のような者が、このようにお迎えになる予定と聞いて目障りに思って、誘拐を企んだ人でもあるのだろうか」 と、下衆などを疑って、
「新参者で、気心の知れない者はいないか」と尋ねるが、
「とても世間離れした所だといって、住み馴れない新参者は、こちらではちょっとしたこともできず、又すぐに参上しましょうと言っては、皆、その引っ越しの準備の物などを持っては、京に帰ってしまいました」と言って、元からいる女房でさえ、半分はいなくなって、まことに人数少ないときであった。

 

《都から母君がやって来ました。朝、「こちらにお迎え申しましょう。今日は雨が降りそうでございますので(近いうちに)」と手紙をよこしていた(巻頭)のですが、…。

『評釈』は、その返事を待つ間も「じっとしていられないで、母の方が出かけて来た」と言いますが、ここは、浮舟の失踪を誰かが知らせて、それを受けて、取るものも取りあえずやってきた、ということではないでしょうか。

失踪という外聞の悪いことが起こったと知っているからこそ、「雨のひどい降りに紛れて」、つまり人目を忍んで来る、という必要があったでしょうし、来るなりすぐに「目の前で亡くなった悲しさは…」と話すことになったのだと考える方が、普通だと思われます。

それにしても「(母君は)身をお投げになっただろうとは思いも寄らず」というのは勇み足の一言で、もともと彼女がそんな具体的な死に方まで思うはずはなく、前に右近と侍従が「『身をお投げになったのか』と思い寄っ」た(巻頭)のと同様に、作者の先走りかと思われます。

「鬼が…、狐のような魔物が…」は当時の一番ポピュラーな考え方で、現代の私達が考えるよりもずっと現実味を帯びて考えられていたのではないでしょうか。三百年余り後の『徒然草』にさえ、鬼になった女が都に連れてこられたと、都中が大騒ぎになる話があります(第五十段)。

「あの恐ろしいとお思い申し上げる方」は薫の正室・女二宮で、その乳母の謀り事かという非常に現実的な疑いと同列に、その可能性を考えているようです。

そしてその疑いから、「元からいる女房でさえ、半分はいなくなって」いるという、意外な事実が明らかになります。「便利な京の実家で、仕立て直しなどしてくるという趣」(『集成』)なのだそうです。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ