【現代語訳】

 まもなく夜が明けてしまう気がするのに、鶏などは鳴かないで、大路に近い所で間のびした声で、何と言っているのか聞いたことのない物売りの呼び上げる声がして、連れ立って行くのなどが聞こえる。このような朝ぼらけに見ると、品物を頭の上に乗せている姿が、「鬼のような恰好だ」とお聞きになっているのも、このような蓬生の宿でごろ寝をした経験もおありでないので、興味深くもあった。
 宿直人も門を開けて出る音がする。それぞれ中に入って横になる音などをお聞きになって、人を呼んで、車を妻戸に寄せさせなさる。抱き上げてお乗せになった。誰も彼もが、とんでもない、あまりに急なことだとあわてて、
「九月でもありますのに。情けないことです。どういうことでしょう」と嘆くと、尼君も、とてもお気の毒で予期しないことだったことだったが、
「いずれ何かお考えのことがあるのでしょう。不安にお思いなさいますな。九月は、明日が節分だと聞きました」と言って慰める。今日は、十三日であった。尼君は、
「今回は、お供できません。宮の上が、お聞きになることもありましょうから、こっそりと行き来いたしますのも、まことに具合が悪うございます」と申し上げるが、早々にこの事をお聞かせ申し上げるのも、恥ずかしく思われなさって、
「それは、後からお話し申し上げも済むでしょう。あちらでも案内する人がいなくては、頼りない所だから」とお責めになる。
「誰か一人、お供しなさい」とおっしゃると、この君に付き添っている侍従と乗った。乳母や尼君の供をして来た童女などはとり残されて、まったく何が何やら分からぬ気持ちでいた。

 

《一夜が明けました。「鶏などは鳴かないで」は「暁の鶏の声に別れを惜しむのが、歌にもよく詠まれた情景。ここは、そんな鶏の声もせず」(『集成』)情趣がない、といっているようです。それどころか下賤の物売りの声が聞こえて、薫はその姿を、いつか誰かが鬼のようだと言っていた、と思いながら思い描くと、物珍しく、何やら別世界にいるような気がします。源氏が夕顔と過ごした十五夜の家(夕顔の巻第四章第二段2節)が思い出されます。

 夜回りの者たちが役目を終えて、それぞれに引き上げました。こうして「男がいなくなるのを待っ」て(『評釈』)、薫は、またしてもこれまでの彼らしくない大胆な行動に出ます。「車を妻戸に寄せさせなさる。抱き上げてお乗せになった」という畳みかけた言い方が、その意外性をさりげなく表現します。これも源氏が紫の上を連れ去ったとき(若紫の巻第三章第三段1節)のことを思い出させる行動です。

 「九月でもありますのに」は、九月は季の果て(秋の終わり)で結婚には不吉とされていたようで、それを理由に何とか引き留めようという口実ですが、弁が、自分でも驚きながらも、「九月は、明日が節分」だから、今日はまだ九月ではないと、現代ではわからなくなったらしい(『評釈』)理由を挙げて乳母をなだめました。

 その一方で、自分は薫に同行できないと言います。二条院の中の宮にお伝えしなければならないので…。

 しかし薫はここでもいつになく強引です。連絡は後ですればいい、お前がいないと行った先で困る(行く先がどこか、これで分かります)、一人供を、ということで、ずっと浮舟についていた侍従が乗り込み、四人を乗せて車は動き出してしまいました。

 薫としては予定の行動だったのでしょう。先に弁を露払いのように行かせて話し合いの場を作っておいて、その場にみずから乗り込んで来て、そのまま連れ去るというのは、有無を言わさぬやりかたで、いささか狡いとはいえ、なかなかうまいと言えます。

 後には、乳母を始めとする一同が残されて、急転直下の成り行きに、あっけにとられています。》

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