【現代語訳】
宮は急いでお出かけになる様子である。内裏に近い方角なのであろうか、こちらの御門からお出になるので、何かおっしゃるお声が聞こえる。たいそう上品でこの上ないお声に聞こえて、風情のある古歌などを口ずさみなさってお過ぎになる間、何となくいとわしく思われる。予備の馬を牽き出して、宿直に伺候する人を十人ほど連れて参内なさる。
上は、お気の毒に、嫌な気がしているだろうと思って、知らないそぶりをして、
「大宮がご病気だということで参内なさってしまったので、今夜はお帰りにならないでしょう。洗髪したせいか、気分もさえなくて起きておりますので、いらっしゃい。退屈にも思っていらっしゃるでしょう」と申し上げなさった。
「気分がとても悪うございますので、おさまりましてから」と、乳母を使って申し上げなさる。
「どうなさったのですか」と、折り返してお見舞いなさるので、
「どこが悪いとも分かりませんが、ただとても苦しうございます」と申し上げなさるので、少将と右近は目くばせをして、
「きまり悪くお思いでしょう」と言うのも、誰も知らないよりはお気の毒である。
「とても残念でお気の毒なこと。大将が関心のあるようにおっしゃっているようだったが、どんなにか軽々しいとさげすむであろう。
こんなに好色がましくいらっしゃる方は、聞くに堪えなく事実でないことをもひねくり出し、また実際不都合なことがあっても、さすがに大目に見る方でいらっしゃるようだ。
この君は、口にはしないで嫌だと思っている点は、とてもこちらが恥ずかしいほど心深く立派なのに、折悪しく心配事が加わった身の上のようだ。
長年見ず知らずであった人のことだが、気立てや器量を見ると、放っておくことができずかわいらしくおいたわしいのに、世の中は生きにくく難しいものだこと。
わが身のありさまは、心に満たぬところが多くある気はするが、このように人並みにも扱われないはずであった身の上が、そのようには落ちぶれなかったのは、なるほど結構なことだった。今はただ、あの困った懸想心がおありの方が、平穏になって離れて下さるなら、まったく何も気に病むようなことはなくなるだろう」とお思いになる。
とても多い御髪なので、すぐには乾かすことができず、起きていらっしゃるのもつらい。白い御衣を一襲だけお召しになっているのは、ほっそりと美しい。
《匂宮が出かけていく様子が西廂の浮舟たちのところに聞こえてくる趣で、「こちらの御門」は「二条の院の西の門」(『集成』)です。「内裏に近い方角なのであろうか」という疑問文は変な言い方で、作者自身が建物の位置関係を承知していないように聞こえます。浮舟の立場での言葉なのでしょうか。
次の「風情のある古歌などを口ずさみなさって」については、『評釈』が「母宮御病気に急ぎ参内というのに、…ひっかかる」と言うとおりですが、一面、匂宮らしいという気もします。しかし、浮舟には、先ほどまでの狼藉を何とも思っていないように思われて、「いとわしく思われ」たのは無理からぬことです。
さて、中の宮は浮舟を気遣って、気分転換にこちらに来ませんかと誘いました。「洗髪したせいか、気分もさえなくて」は現代では考えられない話ですが、ここの最後にもあるように、当時洗髪がいかに大変な作業であったかを思わせます。
「退屈にも思っていらっしゃるでしょう」と、騒ぎについては知らぬふりです。
そういわれても、浮舟としては、「どのようにお思いになっているだろう」(前段)と最も気になっているところですから、とても行く気にはなれません。気分が悪くて、と断ると、宮は一応もう一度「どうなさったのですか」とお尋ねです。しつこいようですが、浮舟の気持ちを思って、あくまで知らない体にしておこうという心遣いと思われます。
その中の宮の前で、一部始終を知っている少将と右近が目くばせをしていますから、宮もそれ以上は言わないでおきました。そしてひとりあれこれと物思いです。しかし、その思いはどうも脈絡がなく、ひどく断片的に見えます。
まずは浮舟のことです。気の毒に、女房たちまで知ってしまった事件ですから、薫の耳に入らずにはいないでしょう。そうなるとかねて関心を寄せておられたあの方が「どんなにか軽々しいとさげすむことであろうか」。ここに敬語がないのが不思議ですが、それ以上に、あの出来事から、女性の側の軽々しさが取り上げられ、咎められるというのが、不思議です。当節、自然災害が起こると、メデイアなどは必ず人為的要因はなかったかと検証しますが、ここで浮舟が検証されるのは、どう考えても気の毒な気がしますが、当時としては、普通の発想だったようです。
次の「好色がましく…」は匂宮です。中の宮と薫の関係については詮索するくせに、妻の妹と自分が関係を持つことの「不都合」さについては頓着しない、ということのようです。『集成』は「大ざっぱでいいかげんなところのある匂宮の性格を見抜いている」と言いますが、むしろ、身勝手だということではないでしょうか。
「この君」は薫。立派な方で、浮舟は、何もなければその方の傍におられるはずなのに、かわいそうに、「心配事が加わった身の上」となって、すんなりとは行かなさそうだ、…。
それに引き換え私は、つらい事ばかりがあったような気がして、人が「幸い人」と言う(宿木の巻第八章第六段)のが不思議に思えていたけれども、こうした身の上になって他の人のことを思ってみると、本当にそうなのかも知れない、あとはただ、薫君の思いが他に向いてさえくれれば…。
ということは、浮舟が早く薫のものになって、関心を奪ってしまってくれればいい、ということでしょうが、今の浮舟はそういう場合ではないので、ずいぶん冷たいように思われます。中の宮のいわゆる「認識の深まり」は、こういう場合大変現実的に働くようで、なかなかクールなところがあるとも言えます。》