【現代語訳】
 菊の、まだすっかり色変りもしないで特に手入れをさせなさっているのはかえって遅れているのに、どういう一本であろうか、たいそう見所があって色変わりしているのを、特別に折らせなさって、「花の中にひとへに(この花の後は、もう花がないのだなあ)」と口ずさみなさって、
「何某の親王がこの花を賞美した夕方です、昔、天人が飛翔して、琵琶の曲を教えたのは。何事も浅薄になった世の中は、嫌なことだ」と言って、お琴をお置きになるのを、残念だとお思いになって、
「心は浅くなったでしょうが、昔から伝えられたことまでは、どうしてそのようなことがありましょうか」と言って、まだよく知らない曲などを聞きたくお思いになっているので、
「それならば、一人で弾く琴は寂しいから、お相手なさい」と言って、女房を呼んで箏の琴を取り寄せさせて、お弾かせ申し上げなさるが、
「昔こそ教えていただく人もいらっしゃいましたが、ちゃんと習得もせずになってしまいましたものを」と、恥ずかしがって手もお触れにならないので、
「これくらいのことも心置いていらっしゃるのが情けない。近頃行くあたりは、まだたいして心打ち解けるようになっていませんが、未熟な習いたての事をも隠さずにいますよ。総じて女性というものは、柔らかで心が素直なのが好いことだと、あの中納言も決めているようです。あの人には、決してこのようにはお隠しにならないでしょう。この上なく親しい仲のようなので」などと、本気になって恨み事を言われたので、溜息をついて少しお弾きになる。

絃が緩んでいたので、盤渉調に合わせなさなさる。調子合せの曲など、爪音が美しく聞こえる。「伊勢の海」をお謡いになるお声が上品で美しいのを、女房たちが、物陰に近寄って、嬉しそうに座っている。
「二心がおありなのはつらいけれども、それも仕方のないことなので、やはり私のご主人を幸福な人と申すのでしょう。このようなご様子でお付き合いなされそうにもなかった長年のお住まいを、また帰りたそうにお思いになっているのはとても情けない」などと、ずけずけと言うので、若い女房たちは、
「おだまりなさい」などと止める。

 

《この段は1節から、結局ここの最後の女房の言葉、「私のご主人(中の宮)は幸福な人(原文・さいわひ人)と申すのでしょう」ということを語っているようです。

 匂宮は、中の宮をからかったり恨み言をいったりいろいろしながら、睦みあっています。ここは、先に中の宮が「秋果つる」と詠んだことを受けて、花の季節の終わりを飾る菊の花を採って来させて、琵琶と菊にまつわる逸話を語り、いかにももの思うふうに琵琶をおきました。もちろん作者の蘊蓄を披歴したというところでもあります。

中の宮は、もうすっかり機嫌を直したようで、匂宮の琵琶をもっと聞きたそうにします。

匂宮は,それならあなたも弾きなさいと、箏の琴を持ってこさせました。しかし中の宮は手を触れようともしません。そういえば、昔、薫が八の宮と話していて姫たちの琴を所望した時(橋姫の巻第四章第二段)も、父の勧めがあったにもかかわらず、引こうとしなかったことがありました。

匂宮は、六の君はそうではなく、言われれば素直に従うのだが、と競争心を煽っておいて、もう一つ、薫には聞かせるのだろうと、嫌味を加えます。実際はこれまで薫に聞かせたことはなかったように思いますが、そんなことをいまさら釈明しても、次の嫌味が追っかけてくるに決まっていますから、中の宮はしぶしぶながら弾き始めます。

「絃が緩んでいたので、盤渉調に合わせなさなさる」というのは、やはりさすがにあの父の娘だけあって、張ってあった弦に合わせた弾き方をしたようです。匂宮がそれに合わせて催馬楽をうたいます。

 いかにも睦まじい光景で、中の宮付きの女房にとっては、宇治の頃と比べて夢のようです。別に正夫人がおられるのは残念だけれどもそれは仕方のないことで、このように大切にされていらっしゃるのと見ると、こういう人こそ「さいわひ人」と言うのだろうと、思わず口にします。それは実は作者の言葉でもあって、高貴の女性の幸福とは、結局こういう形と考えられていたのでしょう。

 この女房は宇治から同行した古参のようで、中の宮の宇治に帰りたいという希望をとんでもないことと口にしますが、若手たちは、言うことさえも憚られると、先輩(と言っても、若手の方が上位のように思われます)に、変な話をしないで下さいと、抑えにかかります。こういうやりとり自体が、楽しいことで、幸せな光景だということなのでしょう。》

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