【現代語訳】

 昔よりは少し痩せて、上品でかわいらしかった様子などは、今離れている気もせずすぐ傍にいる感じがして、まったく他の事は考えられなくなっていた。
「宇治にたいそう行きたくお思いであったようだが、そのように、行かせてあげようか」などと思うが、

「どうして宮がお許しになろうか。そうかといってこっそりとお連れしたのでは、またたいへん不都合だろう。どのようにして、人目にも見苦しくなく、思い通りにゆくだろう」と、気もそぞろに物思いに耽っていらっしゃる。
 まだたいそう朝早いうちにお手紙がある。いつものように表向きはきっぱりした立文で、
「 いたづらに分けつる道の露しげみ昔おぼゆる秋の空かな

(無駄に踏み分けた道の露が多かったので、昔が思い出される秋の空模様ですね)
 お振る舞いの情けないことは、ただもう『ことわり知らぬつらさ(わけの分からな恨めしさ)』です。申し上げようもありません」とある。お返事をしないのも、女房が、いつもと違うと不審に思うだろうから、とても苦しいので、
「拝見しました。とても気分がすぐれず、お返事申し上げられません」とだけお書きつけになっているのを、

「あまりに言葉が少ないことだ」と物足りず、美しかったご様子がただ恋しく思い出される。少しは男女の仲をご存知になったのだろうか、あれほどあきれてひどいとお思いになっていたが、一途に厭うようではなく、たいそう立派にこちらが気が引けるような様子も身に付いて、さすがにやさしく言いなだめなどしてお帰しになったときの心づかいを思い出すと、悔しく悲しく、いろいろと心にかかって、侘しく思われる。

何事につけても、昔よりもたいそう立派になったと思い出される。
「何かまうものか。この宮が離れておしまいになったならば、私を頼りとする人になさるにちがいなかろう。そうなったとしても、公然と気安く会うことはできないだろうが、忍ぶ仲ながら、またこの人以上の人はいない最後の人となるであろう」などと、ただこのことばかりを、じっと考え続けていらっしゃるのは、よくない心であるよ。あれほど思慮深そうに立派なふうに振舞っていらっしゃるが、男というものは嫌なものであることだ

亡くなった人へのお悲しみは、言ってもはじまらないことで、とてもこうまで苦しいことではなかった。今度のことは、あれこれと思案なさるのであった。
今日は、宮がお渡りあそばしました」などと、人が言うのを聞くにつけても、後見としての考えは消えて、胸のつぶれる思いで羨ましく思われる。

 

《薫は、家に帰っても、中の宮の姿がわが身に添っている感じがするほどで、すっかり心を奪われてしまっていました。

 朝、後朝のふうに手紙を送りますが、さすがに「立文」(恋文ではなく「正式な書状の形式」・『集成』)ではあります。「昔おぼゆる」は、宇治で二人で夜を過ごしたこと(総角の巻第二章第六段)を思い出す、というのですが、あの時と同様に「いたづらに」過ぎてしまったことを嘆いている、ということでしょうか。

 中の宮の返事は、素っ気ないものでしたが、溢れる思いを託して書いた薫にしてみれば、一体どれほど自分の思いを感じてくれただろうかと、余計に物思いの種になります。

 それにつけても、昨夜の中の宮の見事なあしらい、振る舞いが、恋しく慕わしく、また「悔しく悲しく」思い出されます。

 とは言いますが、実際には昨夜中の宮は、袖をつかんで放さない薫に対して「恥ずかしく気にくわなくて、泣いて」しまったのであって、特に「見事なあしらい、振る舞い」をしたわけではありませんでした(第四章第七段)。その中の宮の様子を、薫が「何とも言えずかわいらしく、気の毒に思う一方で、心配りが深くこちらが恥ずかしくなるような態度」だと思ったので、それをここに至ってなお、思い出して感じ入っているというのですから、語られない範囲での中の宮の「様子」や「態度」がよほど素晴らしかったのだろうと思うしかないようです。

 こうして一人で考え込んでいると、人は誰でも思いきった大胆なことも可能なように思えてくるもので、さっきまで「こっそりとお連れしたのでは、またたいへん不都合だろう」と慎重だったものが、「何かまうものか(原文・何かは)。…」という気になって来て、とうとう「この人以上の人はいない、最後の人となるであろう」などと山本譲二のようなことを思い詰めます。作者に「男というものは嫌なものであることだ」などと批判されながら、次第に中の宮への思いをエスカレートさせていきました。

 と、そこに、「今日は、宮がお渡りあそばしました」という冷たく水を差す報告が入って、彼は一挙に夢から覚めて、再び悲哀の底に沈む気持ちです。》

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