【現代語訳】

 中納言殿の御前駆の中に、あまりいい待遇を受けなかったのか、暗い物蔭に立ち交じっていたらしい男が帰って来て嘆いて、
「わが殿は、どうしておとなしくこの殿の婿におなりあそばさないのだろう。つまらない独身生活だよ」と、中門の側でぶつぶつ言っていたのをお聞きつけになって、おかしくお思いになるのであった。夜が更けて眠たいのに、あの歓待されている人びとは、気持ちよさそうに酔い乱れて寄り臥せってしまったのだろうと、羨ましいようである。
 君は、部屋に入ってお臥せりになって、
「きまりの悪いことだなあ。仰々しい父親が出て来て座って、縁遠くはない仲だが、あちこちに火を明るく掲げて、お勧め申した盃事などを、とても体裁よくお振る舞いになったな」と、宮のお振舞を、無難であったとお思い出し申し上げなさる。
「なるほど、自分でも、良いと思う娘を持っていたら、この宮をお措き申しては、宮中にさえ入内させないだろう」と思うと、

「誰も彼もが、宮に差し上げたいと志していらっしゃる娘は、やはり源中納言にこそと、それぞれ言っているらしいというのは、自分の評判がつまらないものではないということなのだな。実のところは、あまり結婚に関心もなく、ぱっとしないのに」などと、大きな気持ちにおなりになる。
「帝の御内意のあることを、本当に御決意なさったら、このように何となく億劫にばかり思っていたら、どうしたものだろう。名誉なことではあるが、どんなものだろうか、どうかな、亡くなった姫君にとてもよく似ていらっしゃったら、嬉しいことだろう」と自然と思い寄るのは、やはりまったく関心がないではないのであろうよ。

 

《薫の従者という、下々の視点から見た薫像が語られます。夕霧から見た薫が「祝宴の引き立て役にするには、また心格別でいらっしゃる方」(前段)であったのと比べると、こんないい縁談を袖にする主人は、どうにも物足りない、自分としても栄えの場のない、困った主人です。

 当の薫は、式の時の匂宮を見ていて、あんな堅苦しい席をよく勤められるものだと、日頃の気ままな振る舞いを知っているだけに感心するやら、気の毒になるやらですが、それでもその役を見事に勤めている姿を見ると、なるほどそれなりの娘を持った者は、何とかこの宮に嫁がせたいと思うのもよく分かると納得できるのですが、一方でそういう者たちが、なろうことならこの自分のところに嫁がせたい、(「やはり源中納言にこそ」というのは、匂宮よりもむしろ薫の方に、と言っているニュアンスですが、そうなのでしょうか)と言っていると聞いたことを思い出し、自分もなかなかのものなのだと、ひとり得意な気分です。

 ついでにさらに、「帝の御内意のあること(女二の宮との婚儀のこと・第一章第三段)を、本当に御決意なさったら」さてどうしたものか、と考え込みます。いつまでも仏道を盾にお断りもできまいが、などとためらう気持ちもありながら、一方で、その宮が亡くなった大君に似ていたらうれしいことだ、と、さまざまに思いを巡らします。そのさまを、『講座』所収「栄華と憂愁」(鈴木日出男著)は「権勢欲」「俗情」と呼びますが、また「どんなものだろうか、どうかな(原文・いかがはあらむ、いかにぞ)」といった悩み方は、落語『湯屋番』の若旦那のような塩梅にも見えて、若者らしい滑稽な人の好さとも言えそうです。》