【現代語訳】

 ただこうしておいでになるのを皆が頼みにお思い申し上げていた。いつものように、近いところに座っていらっしゃると、御几帳などを風が烈しく吹くので、中の宮は奥のほうにお入りになる。むさくるしい感じの人びとも、恥ずかしがって隠れている時に、たいそう近くに寄って、
「どんなお具合ですか。私のありたけを尽くしてご祈祷申し上げる効もなく、お声をさえ聞かなくなってしまったので、まことに情けない。後に残してお逝きになったら、どんなにつらいことでしょう」と、泣く泣く申し上げなさる。意識もはっきりしなくなった様子だが、顔はしっかりと隠していらっしゃる。
「気分の好い時があったら、申し上げたいこともございますが、ただもう息も絶えそうにばかりなってゆくのは、残念なことです」と、本当に悲しいと思っていらっしゃる様子なので、ますます涙を抑えがたくて、不吉に、このように心細そうに思っているとは見られまいとお隠しになるが、泣き声まで上げられてしまう。
「どのような宿縁で、この上なくお慕い申し上げながら、つらいことが多くてお別れ申すのだろうか。少し嫌な様子でもお見せになったら、思いを冷ますきっかけにしよう」と見守っているが、ますますいとしく惜しく、美しいご様子ばかりが見える。
 腕などもたいそう細くなって、影のように弱々しいが、肌の色艶も変わらず、白くかわいい感じでなよなよとして、白い御衣などの柔らかなのを掛けて、衾を押しやって、中に身のない雛人形を臥せているような気がして、お髪はたいして多くもなくうちやられている、それが、枕からこぼれているあたりが、つやつやと素晴らしく美しいのも、

「どのようにおなりになろうとするのか」と生きていかれそうにもなく見えるのが、惜しいことは類がない。
 幾月も長く患って身づくろいもしてない様子が、気を許そうともせずこちらが恥ずかしくなるようで、この上なく飾りたてて騒いでいる人よりもずっとまさって、こまかに見ていると、魂も抜け出してしまいそうである。

 

《この恐ろしい風の夜、控えている女房たちにとっては、薫がずっと大君の床の近くに座って見守っているのだけが、微かな頼りに思われています。雪を乗せた風が吹き荒れて、部屋の中までも入り込み、ときどき几帳を吹き上げますので、中の宮は姿を見られないように奥に入り、女房たちもそれに倣って引き下がりました。

 それを見て薫は、膝を進めて大君の近くに寄って声を掛けます。

 大君は、話したいことがあるけれども、その力がないと虫の息です。それを聞いて薫はとうとう声を上げて泣くのでした。あまりにつらくて、「少し嫌な様子でもお見せになったら、思いを冷ますきっかけにしよう」とまで思うのですが、見れば見るほどいとおしくなるばかりです。こういう薫の気持ちは、実は紫の上の晩年に源氏も抱いていたことがあるような気がして、少し読み返しますが、見当たりません。

 しかし、以下の大君の描写は、その臨終の際に夕霧の目に映った紫の上の姿に大変よく似ています。長くなりますが、引いてみます。

「御髪が無造作に枕許にうちやられていらっしゃる様は、ふさふさと美しくて一筋も乱れた様子はなく、つやつやと愛らしい様子はこの上ない。灯がたいそう明るいので、お顔の色はとても白くかがやくようで、何かと身づくろいをしていらっしゃった生前のお姿よりも、正体のない状態で無心に臥せっていらっしゃるご様子が、一点の非の打ちどころもないと言うのもことさらめいているほどである。」(御法の巻第二章第四段)

 病みつかれているはずの死に臨む人が「肌の色艶も変わらず(原文・色あひも変わらず)」とか「お顔の色はとても白くかがやくよう(原文・御色は白く『光る』やう)」などと、神々しくも美しく見えるというのは、ちょっと想像を超える感じがしますが、ここで言えば、薫に大君はそのように見えたのです。

 その大君を見つめる薫について、『評釈』が「彼の脳裏に、胸中に、姫宮の美は永遠に生き続けるのだ」と言いますが、これは失礼ながらおそらくこの評者の意図以上に的確にこの場面の意味を語っているように思われます。つまり、大君の側から言えば、こういう形で薫の永遠に変わらない愛(前段)をもっとも純粋な形で手に入れたのです。

しかしまたそれは逆に、女性はこのようにしか、変わらぬ愛を得ることはできないのではないかという、作者の悲しい認識でもあるでしょう。

巻名の「総角」は三つの輪を作って一か所で結び合わせる「結び方」の呼び名であったのですが、この二人は結ばれたことになるのか、どうか、『光る』が「ずいぶんアイロニカル」だと言います。》

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