【現代語訳】

「私も生き永らえたら、このようなことをきっと経験することだろう。中納言が、あれやこれやと言い寄りなさるのも、私の気を引いてみようとのつもりだったのだ。自分一人で相手になるまいと思っても、言い逃れるには限度がある。ここにいる女房が、性懲りもなくひたすらこの結婚を何とか成就させたいと思っているようだから、心外にも結局はそのようにさせられてしまいそうだ。この事だけは繰り返し繰り返し、用心して過ごせと、ご遺言なさったのは、このようなことがあろう時の忠告だったのだ。
 このような不幸な運命の二人なので、しかるべき親にもお先立たれ申したのだ。姉妹とも同様に物笑いになることを重ねたありさまで、亡き両親までをお苦しめ申すことの情けなさ。私だけでも、そのような物思いに沈まず、罪などたいして深くならない前に、何とか死んでしまいたい」と思い沈むと、気分もほんとうに苦しいので、食べ物を少しも召し上がらず、ただ亡くなった後のあれこれを、明け暮れ思い続けていらっしゃると、心細くなって、この君をお世話申し上げなさるのも、とてもおいたわしく、
「私にまで先立たれなさって、どんなにひどく慰めようがないことだろう。もったいないほどのかわいい様子を、明け暮れの慰みとして、何とかして一人前にして差し上げたいと思って世話するのを、誰にも言わず将来の生きがいと思ってきたが、この上ない方でいらっしゃっても、これほど物笑いになるような目に遭ったような人が、世間に出てお付き合いをし、普通の人のようにお過ごしになるのは、例も少なくつらいことだろう」などとお考え続けると、

「何とも言いようなく、この世には少しも楽しいことがないままに終わってしまいそうな二人らしい」と、心細くお思いになる。

 

《大君はひたすら結婚することの不安をつぶやきますが、具体的には相手に見捨てられることへの不安と、そしてその結果「物笑いになること」への怖れです。

 そう言ってしまうと、ほとんど取り越し苦労で、そんなことを考えていたら何もできないとも思われますが、彼女はこれまでの人生経験から、自分たちは「不幸な運命」に生まれついていると思い込んでいて、悲観的にしかものが見られなくなっているところに、妹が悲しい思いをしてるのを目の当たりにして、ますますその思いを強くしているということなのでしょう。 

 例えば現代風に、妹ともう少し胸襟を開いて話し合ったなら、妹が自分自身について、恋のつらさはあるにしても、必ずしも不幸だと思っているわけではないことが分かったでしょうし、それが分かれば女性のそういう幸福のありかたにも気が付き、自分のいささか偏った人生観にも、なにがしかの変化があったかもしれません。

 前に挙げた『狭き門』のアリサもジェロームの熱烈な求婚を拒否し通したのですが、彼女の場合は、現世とは別の世界により高い価値を見出して、一途にそこに向かっていた結果だった(それが本当の人間の幸福と言えるのかというのが、作者の問だったと思われますが)のですから、恋人の言う恋の幸せには見向きもしなかったのですが、大君の場合の現世否定は、多分に観念的な将来不安に基づくものですから、目標が変わることも十分あり得たのではないかと思われますが、もちろんこの物語はそういう人物を描こうとしている物語ではないので、姉妹の間でそうした話し合いが交わされることはありません。

 そんな中で彼女は悲哀の面だけを自分の胸の中で膨らませていきます。

ところで『光る』がこの大君の気持ちの背景について、ボーボワールの『第二の性』が参考になると言って、たくさんの引用をしています。女性は性や結婚について基本的に怖れを抱いているというのですが、引用の一つを孫引きしてみますと、「(女性は)自分の顔立ちや姿や肉体がはっきり受身なものであるとわかると、彼女はそういうものを欲情で求める他人の、無遠慮な、あの自由から、それらをかくそうとする」というようなものです。

 これ自体は西欧流の純潔とか自我と言った考え方を背景にしているように思えて、大君にどれほど妥当性を持つだろうかという気もしますが、彼女には、捨てられることへの怖れなどという具体的な理由以上に、もっと根本的なところで結婚を拒否する否定的な情緒とでもいうようなものがあることは確かで、そういう意味では、通じるところがあるような気もします。それが前段で述べた厭世的思いではないかと思うのですが。》

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