【現代語訳】2

 去年の春お供した公達は、花の美しさを思い出して、後に残されてここで悲しんでいらっしゃるだろう心細さを噂する。このように忍び忍びにお通いになるとそれとなく聞いている者もいるのであろう。事情を知らない者も混じって、だいたいが何やかやと、人のお噂は、このような山里であるが、自然と聞こえるものなので、
「とても素晴らしくいらっしゃるそうな」
「箏の琴が上手で、故宮が明け暮れお弾きになるようしつけていらっしゃったので」などと、口々に言う。
 宰相中将が、
「 いつぞやも花のさかりにひとめ見し木のもとさへや秋はさびしき

(いつだったか花の盛りに一目見た姫君たちも秋はお寂しいことでしょう)」
 主人方と思って詠みかけてくるので、中納言は、
「 桜こそおもひ知らすれ咲きにほふ花ももみぢも常ならぬ世を

(その桜こそが教えてくれるでしょう、咲き匂う花も紅葉も常ならぬこの世を)」
 衛門督、
「 いづこより秋はゆきけむ山里の紅葉のかげは過ぎ憂きものを

(どこから秋は去って行くのでしょう、山里の紅葉の蔭は立ち去りにくいのに)」
宮の大夫、

「 見し人もなき山里の岩かきに心ながくも這へる葛かな

(お目にかかったことのある方も亡くなった山里の岩垣に、昔に変わらず這いかかっ

ている葛よ)」
 一行の中で、年老いていてお泣きになる。親王が若くいらっしゃった当時のことなどを、思い出したようである。
 宮、

「 秋はててさびしさまさる木のもとを吹きなすぐしそ嶺の松風

(秋が終わって寂しさがまさる木のもとを、烈しく吹き過ぎるな、峰の松風よ)」

と詠んで、とてもひどく涙ぐんでいらっしゃるのを、うすうす事情を知っている人は、
「なるほど、深いご執心なのだ。今日の機会をお逃しになるおいたわしさよ」と拝し上げる人もいるが、仰々しく行列を作っていて、お立ち寄りになることはできない。作った漢詩文の素晴らしい所々を朗誦し、和歌も何やかやと多かったが、このような酔いの紛れには、それ以上に好い作があろうはずがない。一部分を書き留めてさえ見苦しいものである。

 

《大勢になったお供や警護の者たちの中には、去年の春にもこの宇治に同行した者もおり、またそうでなくてもここに高貴の姫がいることを知っている者も多く、あちこちでそれぞれにがやがやひそひそと噂話をし合っています。

 そうした周囲の関心を代表する格好で、中将が、今日のここの主人は薫だと思って、薫に歌を詠みかけました。「匂宮と中の宮のことはまだ知らぬ趣」(『集成』)です。歌の「木」は「こ」と読んで「『子』を響かせる」(同)のだそうです。

 薫は、「木のもと」のことには無関心ふうに、「秋はさびしき」に応じた世の無常を詠んで返します。人々は日ごろの彼らしい歌だと思ったことでしょう。衛門督もその一人で、彼は薫の歌をまっすぐに受け取って、素直な思いを返します。

 年老いた宮の大夫は八の宮と懇意だったようで、姫たちのことなど思いもよらず、逝ってしまった八の宮を思い出して、一人涙に暮れています。

 匂宮は、自分の関心からどんどん離れていくそんなやり取りを聞いていて、そうではないのだという思いを仲間にだけはそれとなく分かってほしかったのでしょうか、「木のもとを」と詠んで、涙ぐんでいます。

 作者は、なおも残る宮の周囲のざわめきをちょっと語ってそっと宮の側から離れ、宮はそのまま帰京した趣にして、筆を八の宮邸に移します。》

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