【現代語訳】

 阿闍梨は、長年お約束なさっていたことに従って、後のご法事も万事お世話申しあげる。
「せめて、亡き人におなりになってしまわれたというお姿やお顔をもう一度見申しあげたい」とおっしゃるが、
「いまさら、どうしてそのような必要がございましょうか。この日頃も、お会いしてはならないとお諭し申し上げていたので、今はそれ以上に、お互いにご執心なさってはいけないとのお心構えを、お知りになるべきです」とばかり申し上げる。

山籠もりしていらっしゃった時のご様子をお聞きになるにつけても、阿闍梨のあまりに悟り澄ました聖心を、憎く辛いとお思いになるのであった。
 出家のご本願は昔から深くいらっしゃったけれども、このように後をお頼みする人もない姫君たちのご将来の見捨てがたいことを、生きている間は、明け暮れ離れずに面倒を見て上げるのを本当に侘しい暮らしの慰めともお思いになって、思い離れがたく過ごしていらっしゃったのだが、限りある運命の道には、お先立ちになるお心も後を慕いなさるお心も、思うにまかせないことであった。
 中納言殿におかれては、お耳になさって、たいそう気落ちして残念で、もう一度ゆっくりとお話申し上げたいことがたくさん残っている気がして、人の世の無常が思い続けられて、ひどくお泣きになる。

「再びお目にかかることは難しいだろうか」などとおっしゃっていたが、やはり普段のお気持ちとしても、朝夕の間も当てにならない世のはかなさを、人一倍お感じになっていたので、耳馴れて、昨日今日とは思わなかったことを、かえすがえすも諦め切れず悲しくお思いなさる。
 阿闍梨のもとにも、姫君たちのご弔問も、心をこめて差し上げなさる。このようなご弔問など、他に誰も訪れる人さえいないご様子の中では、悲しみにくれている姫君たちにも年来のご厚誼のありがたかったことをお分かりになる。
「世間普通の死別でさえ、その当座は比類なく悲しいようにばかり、誰でも悲しみにくれるようなのに、まして気を慰めようもないお身の上では、どのようにお悲しみになっておられるだろう」と想像なさりながら、後のご法事など、しなければならないことを推し量って、阿闍梨にも挨拶なさる。こちらにも、老女たちにかこつけて、御誦経などのことをご配慮なさる。

 

《この阿闍梨は「後のご法事も万事お世話申しあげる」というのですから、決して悪気があるわけではありません。しかしせめて最後のお顔を見たいという姫の懇願にも、「いまさら、どうしてそのような必要がございましょうか」と、にべもありません。やはり僧侶とはそういうものであったのでしょう。

物語は、そういう僧の前にあっての、宮と姫君たちとの「思うにまかせない」間柄を切々と語り、『評釈』も「八の宮が姫君を残して先だつ事はおこり得ることであるが、この両者の関係が、特別のものであるだけに、その別離に対して何ともいえないやりきれなさが、残る」と言いますが、宮の山籠もりが一週間ほどのものだったらしいのに、どうしてあれほどに思い詰めた話をして行ったのかという曖昧さと、阿闍梨の非人情だけが残って、その事後処理についての「あまりに悟り澄ました聖心」に対する違和感ばかりが印象に残ってしまいます。

少なくとも、父宮の娘への言い方一つで娘は伴侶を得たに違いないところまで来ていたのですから、それを自分の手で仕上げてから山に籠もっても不思議ではないだろうと思われますが、その道を選ばなかった事情は物語には語られませんでしたので、何かこの宮が愚かな父親であったという気さえします。

『光る』が「丸谷・八の宮という人があまり聡明じゃないためにこういう悲劇になったとすれば、八の宮をもっと書かなきゃならない」と言いますが、もっともです。

考えてみると、源氏生前の物語には、魅力的な人物がいろいろいました。紫の上、葵の上、明石に御方、果ては末摘花、近江の君といった女性群は言うに及ばず、明石の入道、明石の巻までの頭中将などまで、それぞれの個性が生き生きと表れていました。

匂兵部卿の巻以後は、ああいった躍動的な人物がいないような気がします。まだ本格的な物語に入っていないせいかもしれませんが、やはり『光る』が「丸谷・よく言えば近代人らしい微妙な綾がついている登場人物がいっぱい出てくるんです。そのせいで、なんだか物語の輪郭がくっきりしないんです。」と言います。尻馬に乗って言えば、物語の輪郭以前に、大君や中の君にしても、人物の輪郭がはっきりしないという気がします。》

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