【現代語訳】
 十月になって五、六日のころに、宇治へお出かけになる。
「網代をこそ、この頃はぜひ御覧なさい」と、申し上げる人びとがいるが、
「どうしてその蜉蝣(ひおむし)とはかなさを争うような身で、網代に近づいたりしようか」とお省きになって、例によってたいそうひっそりと出立なさる。気軽に網代車で、固織りの直衣指貫を仕立てさせて、ことさらめいてお召しになっていた。
 宮は喜んでお迎えになって、場所に相応しい饗応など、趣向をこらしてなさる。日が暮れたので大殿油を近くに寄せて、前々から読みかけていらっしゃった経文類の深い意味などについて、阿闍梨も下山してもらい、解釈などおさせになる。
 うとうとともなさらず、川風がたいそう荒々しいうえに、木の葉が散り交う音や水の響きなどが、しみじみとした情感なども通り越して、何となく恐ろしく心細い風情である。
 明け方近くになっただろうと思うころに、先日の夜明けの様子が思い出されて、琴の音がしみじみと身にしみるという話のきっかけを作り出して、
「前回の、霧に迷わされた夜明けに、たいそう珍しい楽の音をちょっとお聞きした残りが、かえっていっそう聞きたく、物足りなく思っております」などと申し上げなさる。
「色や香も捨ててしまった後は、昔聞いたこともみな忘れてしまいまして」とおっしゃるが、人を召して琴を取り寄せて、
「まことに似合わなくなってしまったことです。先に立って弾いて下さる音に付ければ、思い出されるでしょう」と言って、琵琶を取り寄せて、客人にお勧めになる。手に取って調子をお合わせになる。
「まったく、かすかに聞きましたものと同じ楽器とは思われません。お琴の響きがよいからかと、存じられました」と言って、気を許してお弾きにならない。
「何と、まあ、口の悪い。そのようにお耳にとまるほどの弾き方などは、どこからここまで伝わって来ましょう。ありえない事です」と言って、琴を掻き鳴らしなさるのが、実にあわれ深く身に沁みる程である。一つには、峰の松風が引き立てるのであろう。

たいそうおぼつかなく不確かなふうにお弾きになって、趣きがある曲を一つだけでお止めになった。

 

《前回宇治に行ったのが「秋の終わりごろ」つまり九月でした(第三章第一段)から、それからまだ間もない十月の初め、薫は宇治に出かけました。「匂宮を羨ましがらせたように、薫は思い立てば『気軽に網代車で』宇治に行くことができる」(『評釈』)のです。

 網代見物を断ったり、固織りの直衣指貫をことさらに作らせて着たりしたのは、決して物見遊山や姫君に会いたくて行くのではないことを、自他に対して示す証しです。

八の宮は自分から行こうかと思っていた(前段)矢先でもあり、大歓迎でした。そして歓迎の夕食のあとは、早速講読会のようなものが、宮の師である阿闍梨も招いて始まり、夜を徹して続きます。

熱心な講読会のあと、一息ついた夜の明けかかった頃、薫は、ふと前回訪れた朝の楽の音のことを思い出したというふうに、宮に「(あの時)ちょっとお聞きした残り」をお聞きしたいのですがと語りかけました。宮は「みな忘れてしまいました」が、と言いながら琴を持って来させるのですが、ひと年とった人が若者に接するにふさわしいその鷹揚な様子が、読んでなかなかいい感じです。

もっとも薫の言葉からすると、姫たちの合奏を所望しているようなので、どうかと思われますが、『集成』は「姫君たちの合奏を聴いたことを話題にして、間接に宮の琴を所望する」と言います。

宮も薫に敬意を示して、あなたが先導してくれれば、後について弾きましょうと言うと、薫も借りた琵琶を弾いてみて、これが姫君の弾いておられたものと同じ琵琶だろうか、私が弾くとまるで駄目な音だと、琵琶を置いてしまいました。

そこで宮は、あなたのような方が感心なさるような弾き手はこのあたりにはいないはずですが、と言いながら、弾き始めます。それは「実にあわれ深く身に沁みる程」のものでしたが、「一つには、峰の松風が引き立て」た、場所柄、折柄もあったのかも知れないと、作者は言います。

「たいそうおぼつかなく…」は、本当に自信無さそうにではなく、得意そうにではなく謙遜したふうにということでしょう。それでも「趣きがある曲」だったが、控えめに一曲だけでやめたというのでしょう。宮の人柄を表しているわけです。

途中、宮の言葉「口の悪い(原文・さがなや)」が、どうもよく分かりません。あなたのような方がそういうことをおっしゃると、ずいぶん皮肉に聞こえますよと笑った、というようなところなのでしょうか。

ともあれ、お互いに敬意を持った者同士の社交的気配りの利いた、しかし気心の知れた気持ちのいい会話の場面です》

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