【現代語訳】

 七月七日もいつもと変わったことが多く、管弦のお遊びなどもなさらず、何もせずに一日中物思いに耽ってお過ごしになって、星の逢瀬を見る人もいない。まだ夜深いうちにひとりお起きになって、妻戸を押し開けなさると、前栽の露がしとどに置いて、渡殿の戸から通して見渡されるので、お出になって、
「 たなばたの逢ふ瀬は雲のよそに見て別れのにはに露ぞおきそふ

(七夕の逢瀬は雲の上の別世界のことと見て、その後朝の別れの庭の露に私の悲しみ

の涙を添えることよ)」
 風の音までがたまらないものになってゆくころはちょうど御法事の準備で、上旬ころは気が紛れるようである。「今まで生きて来た月日よ」とお思いになるにつけても、夢見る思いで暮らしていらっしゃる。
 御命日には、上下の人びとがみな精進して、あの曼陀羅などを今日ご供養あそばす。いつもの宵のご勤行に、御手水を差し上げる中将の君の扇に、
「 君恋ふる涙は際もなきものを今日をば何の果てといふらむ

(ご主人様を慕う涙は際限もないのですが、今日は何の果ての日と言うのでしょう)」
と書きつけてあるのを、手に取って御覧になって、
「 人恋ふるわが身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり

(人を恋い慕うわが余命も少なくなったが、まだまだ涙は尽きないことよ)」
と、書き加えなさる。
 九月になって、九日、綿被いした菊を御覧になって、
「 もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな

(一緒に起きて置いた菊のきせ綿の朝露も、今年の秋は私独りの袂にかかることだ)」

 

《七月、秋の訪れです。しかしもう源氏は季節の景物にも心が動かなくなったようで、ただ紫の上の追憶に「何もせずに一日中物思いに耽って」、涙しているばかりです。

七日、七夕の星を見る気もなく、朝起きてしとどに降りた露に、秋の訪れと昨夜が七夕だったことに想いを致すだけで、ただ涙です。

風の音が秋の深まりを感じさせるころは、一周忌法要の事に取り紛れて「夢見る思いで(原文・あきれて)」過ごします。「今まで生きて来た月日よ」は、恋人に捨てられておめおめと生きて来たわが身を嘆く歌(古今集806)を下敷きにしているようで、ここでは紫の上の死以後一年のいたずらな長さを思っての言葉です。

法要の日は中秋、八月です。亡くなったのは十四日でした。この日も中将の君と共に、ただ涙です。「御手水を差し上げる中将の君の扇」に書かれた歌が読めた、というのがよく分かりませんが、「この歌を書いた扇をおいて、水さしを手に、源氏がたらいの上に手を出すのを待つ」、そのとき見たのだと『評釈』が言います。中将は読んで貰うつもりで用意していたわけで、これもものの情趣を心得た二人の間の、息の合ったやりとりなのでしょう。

九月九日は重陽の節句、「真綿を菊の花の上に被せ、花の露を綿に移して、それで身を拭うと、老いを去ると信じられていた」(『集成』)のだそうで、歌は、それを紫の上とした、昔を思い出してのものでしょうが、しかしもう今年は自分にはそういうことも用が無くなったといった感慨がありそうです。

こういう「哀傷」の源氏を見て横道に逸れて思うのですが、一般に、ひと歳とってから夫を亡くしてひとりになった女性が、晩年をりんとしてさわやかに生きる話は、比較的よく聞いても、妻を亡くした男性は、どうもそうはいかないことが多いような気がするのですが、どうでしょうか。

ひとつには、女性は多くずっと夫を世話する側にあったわけで、するだけのことはしたと思いやすいのに比べて、男性は、妻に幸福を与えなくてはならない立場にあるわけですが、これには限度が定かではありませんから、亡くなられてみると、もっとできた、しなくてはならなかったという気がして、逆につらい思いをさせたことばかりが思い出され、どうしても悔いが残る、ということがあるのかもしれません。

いや、あるいはもっと簡単に、もともと女性の方が実生活の中では生存しやすくできている(そうでなければ、妊娠、出産、育児という、客観的には自己犠牲しかない長い期間を普通のこととして生き延びることはできそうになく、男の側からは見えます)ということなのでしょうか。

ともあれ、源氏には「もっとできた、しなくてはならなかった」という悔恨と愛惜の毎日が続きます。》

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