【現代語訳】1

 物の怪にお悩みになっていらっしゃる方は、重いように見えるが、爽やかな気分になられる合間もあって、正気にお戻りになる。昼日中のご加持が終わって、阿闍梨一人が残って、なおも陀羅尼を読んでいらっしゃる。好くおなりであるのを、喜んで、
「大日如来が嘘を仰せでないなら、どうしてこのような拙僧が心をこめて奉仕するご修法に験のないことがありましょうか。悪霊は執念深いようですが、業障につきまとわれた弱いものです」と、声はしわがれて荒々しくいらっしゃる。たいそう俗世離れした一本気な律師なので、だしぬけに、
「そうそう。あの大将は、いつからここにお通い申すようになられましたか」とお尋ねになる。御息所は、
「そのようなことはございません。亡くなった大納言と大変仲が好くて、お約束なさったことを裏切るまいと、ここ数年来、何かの機会につけて、不思議なほど親しくお出入りなさっているのですが、このようにわざわざ患っていますのをお見舞いにと言って、立ち寄って下さったので、もったいないことと聞いておりました」と申し上げなさる。

 

《前段を「御息所もまったく御存知でない」と結んでおいて、ここで改めてその御息所の側の話になった格好になりましたが、ここでは便宜上、段を分けて区切った形にしているだけで、原文ではもちろんそのまま繋がっていますから、改めて、ではなくて、それをきっかけに場面を転換しているわけです。

僧と二人きりになるということは、よくあることのようで、その折り、事件が起こるのは、冷泉帝が出生の秘密を聞かされたときも、同じです(薄雲の巻第四章第二段)。

さて、この僧については、『評釈』が「たいそう俗世離れした(原文・聖だち)」とあることに注目して、「どうも修験者めいたところがある人で、貴族出身の僧ではないらしい。…荒修行に裏打ちされた自信が見えている。だから思ったことをそのまま口に出す」と言います。『集成』も「聖」について、「官許を得ず山野に修行する私度僧」と注しています。そういえば、冷泉帝の時の宵居の僧の慇懃さとはまったく違う様子です。

確かに「陀羅尼を読んでいらっしゃる」中で、「だしぬけに、『そうそう。あの大将は、いつからここにお通い申すようになられましたか』とお尋ねになる」というのは、その言葉の直接的であることも含めて、その「一本気」がどういうものか、をよく示しています。

こう強烈な個性を持った僧侶は、当時、珍しくなかったのでしょうか、この物語の中では、末摘花の兄の(蓬生の巻第二章第二段)も、異なるタイプではありますが、奇人と言っていい人でしょう。

それに比べて御息所の返事は、たいへん普通でおだやかなものですが、対照が際だつ感じで、この人のきちんとした人柄が感じられ、読み進めていて何かほっとします。》

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