【現代語訳】1

 このような出歩きは馴れていらっしゃらないお気持ちのままに、興をそそられもするがまた気を遣うことだという気もしながら、三条殿にお帰りになると女君がこのような露に濡れているのを変だとお疑いになるに違いないので、六条院の東の御殿に参上なさった。まだ朝霧も晴れず、それ以上にあちらではどうであろうか、とお思いやりになる。
「いつにないお忍び歩きだったのですわ」と、女房たちはささやき合う。暫くお休みになって、お召し物をお着替えになる。いつでも夏服冬服と大変きれいに用意していらっしゃるので、香を入れた御唐櫃から取り出して差し上げなさる。お粥など召し上がって、院の御前に参上なさる。
 あちらにお手紙を差し上げなさったが、御覧になろうともなさらない。突然心外であった有様を腹だたしくも恥ずかしくもお思いになると、不愉快で、母御息所がお耳になさるであろうこともまことに気の引けることで、また、こんなことがあろうとは全然御存知でないままに普段と変わった点にお気づきになり、人の噂もすぐに広まる世の中だから自然と聞き合わせて、隠していたとお思いになるのがとても辛いので、
「女房たちがありのままに申し上げて欲しいものだ。困ったことだとお思いになってもしかたがない」とお思いになる。
 母子の御仲と申す中でも、少しも互いに隠し事なくお気持ちを交わしていらっしゃる。他人は漏れ聞いていても親には隠しているという例は、昔の物語にもあるようだが、そのようにはお思いにならない。

 

《ともかくもそれらしい一場面を終えての、「興をそそられもするが、また気を遣うことだ」という夕霧の感想が、いかにも物慣れないことをして我ながら戸惑っているという様子で大変愉快です。髭黒や若い頃の源氏のようなひたむきな思いではなく、心の一部に醒めたところのある感じがよく分かります。

とは言え、まだ深い朝霧には、まっ先に「あちらではどうであろうか、とお思いやりになる」のですから、決していい加減な浅い思いではないというところが、この人の独特なところなのです。

それにしても、続けて、着替えをしたとか「お粥など召し上がって」とか、源氏に挨拶をしたとかいうのは、なんともドメステイックです。『評釈』が、源氏が末摘花と逢った朝、帰って頭中将とお粥や強飯を食べたという場面(末摘花の巻第一章第六段1節)を挙げて並べながら、「この後朝からは纏綿とした朝の情緒は漂って来ない」と言いますが、源氏の場合は男友達と一緒なので、それなりにさりげなく装うことも必要だったと言えるにしても、ここの場合はまったく、と同感されます。

そんな中で夕霧は、後朝の型どおり、ということなのでしょうか、文を送ります。

しかし、すっかり機嫌を損ねた宮は、開いてみようともしません。『評釈』が、「(宮にとっては)後朝ではないのだ。大将の手紙を手にとる必要はないのだ。手にとれば、後朝になってしまう。実事があったことになってしまう」と言います。

そんな手紙よりも、こういうことを母御息所が知ったらどう思うだろうかと、そればかりが気になっています。と言って、彼女としては、ただ話をしただけで何もなかったのですから、それを自分からことさら話題にするのは、かえって逆に何かあってその弁解をしているような形になりかねないような気がします。いっそ、女房の誰かがこっそりとありにままを話してくれればいいのに、という気さえします。それで母の方から話題にされれば、そこできちんと話ができるのに…。》

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