【現代語訳】

そうしてから、
「帰り道が霧でまことにはっきりしないので、この辺りに宿をお借りします。同じことなら、この御簾の側をお許し頂きたく思います。阿闍梨が下がって来るまでは」などと、さりげなくおっしゃる。

いつもはこのように長居してくだけた態度もお見せなさらないのに、困ったことだと宮はお思いになるが、殊更めいてすぐにあちらにお移りになるのもみっともない気がして、ただ音を立てずにいらっしゃると、あれこれと言い寄り申し上げて、お言葉をお伝えに入って行く女房の後ろに付いて、御簾の中に入っておしまいになった。
 まだ夕暮の、霧に閉じ籠められて家の内は暗くなった時分である。驚いて振り返り、宮はとても気味悪くおなりになって、北の御障子の外にいざってお出になるが、たいそううまく探り寄って、お引き止め申したのだった。
 お身体はお入りになったが、お召し物の裾が残って、襖障子は向側から鍵を掛けるすべもなかったので、閉めきれないまま、びっしょりに汗を流して震えていらっしゃる。
 女房たちも驚いて、どうしたらよいかとも考えがつかない。こちら側からは懸金もあるが、困りきって、手荒くは引き離すことのできるご身分の方ではないので、
「何ともひどいことを。思いも寄りませんでしたお心ですこと」と、今にも泣き出しそうに申し上げるが、
「この程度にお側近くに控えているのが、誰にもまして疎ましく目障りな者とお考えになることでしょうか。人数にも入らないわが身ですが、お耳馴れになった年月も長くなったでしょう」とおっしゃって、とても静かに体裁よく落ち着いた態度で、心の中をお話し申し上げなさる。

 お聞き入れになるはずもなく、悔しく、こんな事にまでと、お思いになることばかりが心を去らないので、返事のお言葉はまったく思い浮かびなさらない。

 

《従者たちの措置を済ませて、柏木は、向き直って宮に、帰り道が暗くなったので、今日は『この辺り』で泊まって阿闍梨と話したい、彼が帰ってくるまで、ここで待たせて下さい、と話しかけます。

 そうして、その言葉を伝えに御簾の中に入る女房の後について、彼も入り込んでしまいました。これは、ここまでの彼の言動から考えると、間に「あれこれと言い寄り申し上げて」とあるものの、ずいぶん突然の、読者にとってもちょっと驚きの強引な振る舞いです。

ところで、例えば源氏が藤壺に近づいた時も同じように基本的に拒否されると思われる場面で、「どのように手引したのだろうか」(若紫の巻第二章第一段)とか、「どのような機会だったのだろうか、思いもかけぬことに、お近づきになった」(賢木の巻第三章第一段)と、その間の具体的ないきさつはまったく語られませんでした。

それによって、むしろ自然な接近が感じられたのですが、こうして写実的に語れると、不思議なことに夕霧の振る舞いがたいへんぎこちなく、事務的即物的で、美しくなく思われます。

賢木の巻の続きもここと同じような場面が続いて、そこでは源氏が藤壺の髪の裾を捉えるという、きわめて官能的で、おどろおどろしい情念の感じられる振る舞いでしたが、ここは着物の裾で、しかもまわりに襖障子が閉められなくておろおろしている侍女たちがいると描かれると、前にそういう圧倒的な迫力のある場面があっただけに、ここはひとまわりドラマ性が小さく感じられ、なにやら少々滑稽ささえまとわりついて、それを大まじめに演じている生真面目な若者が思い描かれ、それがそのまま源氏と夕霧の人間の大きさの違いのような印象を受けます。》

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