【現代語訳】

「その笛は、私が預からねばならないわけがある物だ。それは陽成院の御笛だ。それを故式部卿宮が大事になさっていたが、あの衛門督は、子供の時から大変上手に笛を吹いたのでそれに感心して、故式部卿宮が萩の宴を催された日に、贈り物にお与えになったものだ。女の考えに深くも由緒を知らず、そのように与えたのだろう」などとおっしゃって、
「『末の世』の伝えというのは、また他に誰と間違えようか。そのように考えたのだろう」などとお考えになって、

「この君も思慮深い人なので、気づくこともあろうな」とお思いになる。
 そのご表情を見ていると、ますます遠慮されて、すぐにはお話し申し上げなされないが、せめてお聞かせ申そうとの思いがあるので、ちょうど今この機会に思い出したように、はっきり分からないふりをして、
「臨終となった折にも見舞いに参上いたしましたところ、亡くなった後の事を言い遺しました中に、これこれで、深く恐縮申している旨を繰り返し言いましたので、どのようなことでしょうか、今に至までその理由が分かりませんので、気に掛かっているのでございます」と、いかにも腑に落ちないように申し上げなさるので、
「やはりな」とお思いになるが、決してその頃のことをお口になさるべきではないので、暫く考える様子をして、
「そのような、人に恨まれるような事は、どういう折にも面に漏らしたことはないだろうと、自分自身でも思い出す事ができないな。それはそれとして、そのうちゆっくり、あの夢の事は考えがついてからお話し申そう。夜には夢の話はしないものだとか、女房たちが言い伝えているようだ」とおっしゃって、ろくにお返事もないので、お耳に入れてしまったことをどのように考えていらっしゃるのかと、きまり悪くお思いであった、とか。


《源氏にとっては思いがけない話ですが、夕霧の夢の中で柏木が息子に贈りたいといったということであれば、薫しかいません。彼はその笛を自分が預かって、渡すことにしようと考えます。

陽成院、故式部卿宮というのが誰であるのかよく分からないようで、この場の都合で出てきた人のようです(陽成院は実在した院でもあるのだそうです)が、「故式部卿宮」は『評釈』が「紫の上の父で故人になっていれば、その人の笛を源氏がもつ理由は生ずる」と言います。

そういう話をしながら、彼は、この子にはいつか事情を気づかれそうだと思いました。彼の息子の評価は高いのです。

夕霧の話の狙いはそれだけではありません。彼はもう一押し、柏木の言った「深く恐縮申している」という事情を、「いかにも腑に落ちないように」尋ねてみます。若々しく臭い芝居をしている彼の姿が浮かぶようです。

源氏はドキリとしますが、こちらも「暫く考える様子をして」、そして素知らぬ顔で、思い当たることがないと、とぼけ、「夜には夢の話はしないものだとか」と、話を逸らして打ち切りました。

そして最後に、夕霧が、こんな話をしたことがよかったのか悪かったのか、と少し気にした、というのが、また柏木同様この世代の弱いところで、源氏の若い頃は、そういうふうにもものを考えたことは一度もなかったように思います。ナンバー1である人とその人の前にいる人との違いです。

あるいは源氏も、六条御息所の前ではそういうことがあったのかもしれません。また、晩年、玉鬘の前でもあるいは…。

ところで、この笛の話はこの後話題になることはありません。するとこの笛の物語の中での役割は何だったのか、気になります。
 一つは夕霧と源氏が柏木の話をする場を作る風雅な材料、ということでしょうか。結局はうやむやになってしまったのですが、夕霧には父の周辺に表に出せない霧の部分があるという思いが残り(巻末の「きまり悪く(原文・つつましく)」は、そういう気持ちをいうのかも知れないと思ったりします)、源氏の方も、いつかこの子が自分の秘密に気づくことがあるかも知れないと、いささかの後ろめたさを抱くことになって、それぞれに心にわだかまるものを生みました。

もう一つは夕霧が源氏を訪ねることによって、後の主要人物になる匂宮と薫を予告編的に登場させ会わせることができたことも挙げてもいいでしょう。

ともあれこうして一つの事件がフェードアウトされます。》

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