【現代語訳】

 月の出が遅いころなので、灯籠をあちらこちらに懸けて、明かりをゆおうどよい具合に灯させていらっしゃる。
 宮の御方をお覗きになると、他の誰よりも一段と小さくかわいらしげで、ただお召し物だけがあるという感じがする。匂い立つような美しさは劣って、ただとても上品に美しく、二月の二十日頃の青柳がようやく枝垂れ始めたような感じがして、鴬の羽風にも乱れてしまいそうなくらいか弱くお見えになる。桜襲の細長に、御髪は左右からこぼれかかって、柳の糸のようである。
 この方こそはこの上ないご身分の方のご様子というものだろうと見えるが、女御の君は、同じような優美なお姿で、今少し匂い立つような美しさがあって、物腰が奥ゆかしく風情のあるご様子でいらっしゃって、美しく咲きこぼれている藤の花が夏にかかって、他に並ぶ花がなく、朝日に輝いているような感じでいらっしゃった。
 とは言え、とてもふっくらとしたころにおなりになって、ご気分もすぐれない時期でいらっしゃったので、お琴も押しやって脇息に寄りかかっていらっしゃる。小柄なお身体でなよなよとしていらっしゃるが、ご脇息は並の大きさなので、無理に背伸びしている感じで、特別に小さく作って上げたいと見えるのが、とてもおかわいらしげにお見えになるのであった。
 紅梅襲のお召物にお髪がかかってさらさらと美しくて、灯台の光に映し出されたお姿が、またとなくかわいらしげだが、紫の上は、葡萄染であろうか、色の濃い小袿に薄蘇芳襲の細長で、お髪がたまっている様子はたっぷりとゆるやかで、背丈などちょうどよいぐらいで姿形は申し分なく、辺り一面に美しさが満ちあふれている感じがして、花と言ったら桜に喩えても、やはり衆に抜ん出た様子は、格別の風情でいらっしゃる。
 このような方々の中で、明石の御方は圧倒されてしまうところだが、まったくそのようなことはなく、振る舞いなどもしゃれていてこちらが恥ずかしくなるくらいで、心の底を覗いてみたいほどの深い様子で、どことなく上品で優雅に見える。
 柳の織物の細長に、萌黄であろうか小袿を着て、羅の裳の目立たないのを付けて、格別に控えめにしていたが、その様子は、思いなしか立派で、軽んじられない。
 高麗の青地の錦で縁どりした敷物に、まともに座らず、琵琶をちょっと置いて、ほんの心持ばかり弾きかけて、しなやかに使いこなした撥の扱いようは、音色を聞くやいなや、また比類なく親しみやすい感じがして、「五月待つ花橘」のようで、花も実もともに折り取った薫りのように思われる。

 

《今度は四人の女性の美人比べです。源氏がそれぞれの几帳の中を覗いて歩いているのだと『評釈』が言います。しかし、何をしに歩くのでしょうか。読者へのサービスなのでしょうか。

それぞれの女性が花に喩えられます。宮の御方は「青柳が、ようやく枝垂れ始めたような感じ」(花ではありませんが)、女御の君は「美しく咲きこぼれている藤の花」、紫の上は「桜」、明石の御方は「五月待つ花橘」と言われます。

以前、夕霧が六条院の同じ女性たちを花に喩えたことがありました。あの時も、紫の上を、やはり桜に(野分の巻第一章第二段)、明石の姫君(今の女御)をこれも同じく藤の花に(同第三章第二段)、そして今ここにはいませんが、玉鬘を山吹に喩えていました(同第二章第四段)。

紫の上と女御について、十年の間を置いて父子が同じ女性に同じ喩えをするのは、読者としては驚きですが、作者にとっては動かし難い喩えなのでしょう。

しかし、野分の巻のところでも言いましたが、十五歳の少年ならともかく、今や壮年を過ぎようかという男に、女性を花に喩えさせるというのは、いかがなものかという気がします。いかにも女性的な発想で、美しいと言おうとしていることは解りますが、あまり理解しやすい表し方ではないように思います。

その中で、女三の宮を青柳に喩えたのは印象的で、いかにもまだ初々しく、未成熟な感じを思わせます。ふと、『伊豆の踊子』で踊り子を若桐に喩えた場面を思い出しますが、彼女の場合は無垢な処女性を示していて、そういう美しさを感じさせますが、この姫の場合はすでに二十歳を越えていて、曲がりなりにも夫人であるのですから、精神的にいささか問題があるのではないかという危惧を持ちます。その上、「小さくかわいらしげで、ただお召し物だけがあるという感じがする」となると、身体的な問題もあるのか、と思ったりして、それらのことと、「ただとても上品に美しく」と、どうつなげてイメージすればいいのか、ちょっと戸惑いを感じてしまいます。》

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