【現代語訳】

 夜がほのぼのと明けて行くと、霜はいよいよ深く、本方と末方とがその分担もはっきりしなくなるほど酔い過ぎた神楽の奏者たちが、自分の顔がどんなになっているか知らないで面白いことに夢中になって、庭燎も消えかかっているのに、依然として「万歳、万歳」と、榊の葉を取り直しては、お祝い申し上げる御末々の栄えを、想像するだけでもいよいよめでたい限りである。
 万事が尽きせず面白いまま、千夜の長さをこの一夜の長さにしたいほどの夜も、あっけなく明けてしまったので、返る波と先を争って帰るのも残念なことと、若い人々は思う。
 松原に遥か遠くまで立て続けた幾台ものお車が、風に靡く下簾からこぼれ出ている出し衣も常磐の松の蔭に花の錦を引き並べたように見えるが、袍の色々な色が位階の相違を見せて、趣きのある懸盤を取って次々と食事を一同に差し上げるのを、下人などは目を見張って立派だと思っている。
 尼君の御前にも、浅香の折敷に青鈍の表を付けて、精進料理を差し上げるという事で、「驚くほどの女性としてのご運勢だ」と、それぞれ陰口を言ったのであった。
 御参詣なさった道中はものものしいことで、もてあますほどの奉納品がいろいろとあって窮屈げにあったが、帰りはさまざまな物見遊山の限りをお尽くしになる。それを語り続けるのも煩わしく、厄介なことなので。
 このようなご様子をもあの入道が聞くことも見ることもできない山奥に離れ去ってしまわれたことだけが、残念に思われた。難しいことだろうし、出てくるのは見苦しいことであろうよ。

世の中の人は、これを例として高望みがはやりそうな時勢のようである。万事につけて、誉め驚き、世間話の種として、「明石の尼君」と幸福な人の例に言ったのであった。あの致仕の大殿の近江の君は、双六を打つ時の言葉にも、「明石の尼君、明石の尼君」と言って賽を祈ったのである。

 

《歓楽と奉祝の限りを尽くした一夜はあっけなく過ぎて、源氏の一行は住吉神社を後にしますが、そのまた帰っていく行列のさまも耳目を驚かす有様でした。

焦点はこの参拝に最も関わりの少ない尼君に絞られて、その冥加のほどが語られますが、それにつけても入道がいないのが惜しまれます。

しかし作者は、いないから入道が惜しまれるのであって、もし実際にここに加わるのは「難しいことだろう」、もし加わっていたら、「出てくるのは見苦しい」ことだと思われただろう、と言います。「入道」という立場がそう言われるのでしょうか。

ともあれ、尼君の冥加は世の噂の的で、当時、幸福な人と言えば明石の尼君と、象徴的存在になってしまいました。そこで例の近江の君の登場で、双六遊びでいい賽の目が出るようにその名を念じるほどだったと言いますが、以前彼女の賽を振る様が描かれてあった(常夏の巻第二章第二段)ことを踏まえての話で、その場面に重ねて思い描くと、その面目躍如、楽しいエピソードです。

明石の御方や姫君の境遇は、普通願うべくもありませんが、この尼君なら、彼女は自分の力よってではなく、周囲の人々の幸運の巻き添えで得た冥加ですから、あるいは自分の身にもそういうことがないとも限らない、たまたま身近の人が宝くじを当てて、そのおこぼれに預かったというようにでも考えたらいいでしょうか、それもまた、どこか近江の君的ですが。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ