【現代語訳】

 一晩中神楽を奏して夜をお明かしになる。二十日の月が空の高みに澄んで、海面が美しく見えわたっているところに、霜がたいそう白く置いて松原も同じ色に見えて、何もかもが肌寒く感じられ、風情や情趣の深さもひとしおに感じられる。
 対の上は、いつものお邸の内にいらっしゃったまま、季節ごとに興趣ある朝夕の遊びに耳慣れ目馴れていらっしゃったが、御門から外の見物をめったになさらず、ましてこのような都の外へお出になることはまだご経験がないので、物珍しく興味深くお思いになる。
「 住の江の松に夜ぶかく置く霜は神のかけたる木綿蔓かも

(住吉の浜の松に夜深く置く霜は神様が掛けた木綿鬘でしょうか)」
 篁朝臣が、「比良の山さえ」と詠んだ雪の朝をお思いやりになると、ご奉納の志をお受けになった証だろうかと、ますます頼もしく思われる。女御の君が、
「 神人の手にとりもたる榊葉に木綿かけ添ふるふかき夜の霜

(神主が手に持った榊の葉に木綿を掛け添えたように見える深夜の霜ですこと)」
 中務の君が、
「 祝子が木綿うちまがひ置く霜はげにいちじるき神のしるしか

(神に仕える人々の木綿鬘と見間違えるほどに置く霜は、仰せのとおり神の御霊験の

証でございましょう)」
 次々と数え切れないほど多かったのだが、どうしてわざわざ覚えていましょうか。このような時の歌は、いつもの上手でいらっしゃるような殿方たちも、かえって出来映えがぱっとしないで、松の千歳を祝う決まり文句以外に目新しい歌はないので、煩わしくて省略する。

 

《こういう話を読むといつも思うのですが、昔の人はずいぶんタフだったようです。

都から多分一日掛けてやって来たのでしょうが、その晩、徹夜で神楽を楽しみ、自分たちも舞います。

しかも外は一面に真っ白の霜で、松の木までが白く見えるほどだと言います。霜の朝は雪の朝よりもはるかに気温は低いと思いますが、その外の景色を、「何もかもが肌寒く感じられて、風情や情趣の深さもひとしおに感じられる」と、楽しく眺めています。ということは、ガラス越しでさえなく、戸が開け放たれているわけです。

「肌寒く(原文・そぞろ寒く)」どころではないだろうと思うのですが…。(余計なことですが、現在の十一月下旬、大阪でこれほどの霜を見ることはできないでしょう。全体にずいぶん気温が低かったのでしょう)。

紫の上にとっては、十歳で二条院に入って以来(現在三十六歳)こういう田舎の風景は初めてのことですから、楽しく目新しい経験だったことでしょう。もっとも、それで言えば物心の付く前、三歳で二条院に入った女御(今十八歳)の方がはるかに目新しく感じたとも思われますが、ものの風情を知ることは紫の上が上ということでしょうか。

さらに、御方の感慨の深さは二人のそれをはるかに上回ったに違いありませんが、ここでは登場させて貰えません。

心動かされるままに歌が詠み交わされます。興に乗じてたくさんの歌が詠み交わされたものの、「このような時の歌は、…目新しい歌はない」と、残りは省略すると言います。すると、この場面の意味は何なのでしょう。

やはり歌の不出来のことは作者の謙遜で、一族の幸福な姿の極めつけの場面、といったところでしょうか。また、住吉神社に来て、歌を詠み交わす場面が無いということは考えられない、ということもあるのかも知れません。》

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