【現代語訳】1

 十月に、対の上は院の四十の御賀のために、嵯峨野の御堂で薬師仏をご供養申し上げなさる。盛大になることはかたくお止め申しておられたので、目立たないようにとお考えになっている。仏像、経箱、帙簀の整っていることは、真の極楽のように思われる。最勝王経、金剛般若経、寿命経など、たいそう盛大なお祈りである。上達部がたいへん大勢参上なさった。

 御堂の様子は、素晴らしく何とも言いようがなく、紅葉の蔭を分けて行く野辺の辺りから始まって、見頃の景色なので、半ばはそれで競ってお集まりになったのであろう。
 一面に霜枯れしている野原のまにまに、馬や牛車が行き違う音がしきりに響いていた。御誦経を、我も我もと御方々がご立派におさせになる。

 二十三日を御精進落しの日として、こちらの院はこのようにどこにもご婦人が住んでいらっしゃるので、ご自分の邸宅とお思いの二条院で、そのご用意をおさせになる。ご装束をはじめとして、一般の事柄もすべてこちらでばかりなさる。他の御方々も適当な事を分担し合って、進んでお仕えなさる。
 東西の対は、女房たちの局にしていたのを片付けて、殿上人、諸大夫、院司、下人までの饗応の席を、盛大に設けさせなさった。寝殿の放出を例のように飾って、螺鈿の椅子を立ててある。
 寝殿の西の間にご衣装の机十二脚を立てて、夏冬のご衣装、御夜具など、しきたりによって、紫の綾の覆いの数々が整然と掛けられていて、中の様子ははっきりしない。
 御前に置物の机を二脚、唐の地の裾濃の覆いがしてある。挿頭の台は沈の花足、黄金の鳥が銀の枝に止まっている趣向など、淑景舎のご担当で、明石の御方がお作らせになったものだが、趣味深くて格別である。
 背後の御屏風の四帖は、式部卿宮がお作らせになった。たいそう善美を尽くして、おきまりの四季の絵であるが、目新しい泉水、潭など、見なれず興味深い。北の壁に沿って、置物の御厨子を二揃い立てて、御調度類はしきたりどおりである。
 南の廂の間に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をおはじめ申して、それ以下の人々はまして参上なさらない人はいない。舞台の左右に、楽人の平張りを作り、東西に屯食を八十具、禄の唐櫃を四十ずつ続けて立ててある。


《世を挙げて準備していたと言われた(藤裏葉の巻第三章第一段)源氏の四十の賀は、ここまででは玉鬘が抜き打ちに若菜を届けたということで終わっていましたが、女三の宮の降嫁も終わったことで、やおら紫の上と中宮がそれぞれに催すことになります。

初めに紫の上が、「嵯峨野の御堂で薬師仏をご供養申し上げなさる」という形でのお祝いしました。十年ほど前、明石の御方が大井の山荘にいたころに源氏が改修していた、あの御堂です。

その儀式も賑々しいものでしたが、またその法要の精進落としの方も、儀式に劣らず、というよりここの語り方で言えば、それ以上に大変なものでした。

六条院では「このようにどこにもご婦人が住んでいらっしゃる」ので、何かと遠慮される面があるということで、紫の上は「ご自分の邸宅とお思いの二条院で、そのご用意をおさせに」なります。

何かと、とは言いますが、遠慮の対象は、もちろん女三の宮ただ一人でしょう。こういうところは、ゆかしい配慮と考えるべきところではあるのですが、紫の上ファンとしては、世が世であれば、といった感慨を持たざるを得ません。

「他の御方々も適当な事を分担し合って、進んでお仕えなさる」と言いますから、六条院の婦人方は皆、この催しに参加したのでしょうが、その女三の宮はどうだったのでしょうか。名前が出てくるのは明石の御方だけで、その他の様子は分かりませんが、降嫁したばかりとは言え、本来正室である彼女が主催してもおかしくはない催しですから、参加はしにくいのではないでしょうか。

人々は、その女三の宮と紫の上の関係がうまくいっているらしいと分かった挙げ句のことですから、源氏自身は「盛大になることは、かたくお止め申しておられた」というものの、安心して我も我もとやって来て、「御調度類はしきたりどおり」といったことからも推し量られるように、自然と賑々しいものになっていきます。

なお、『評釈』はここの「嵯峨野の御堂」について、当時の人は、京都嵯峨に実在する清涼寺という寺をそれとして思い描いていただろうと言います。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ