【現代語訳】
 対の上におかれては、このようにご挨拶にお出向きになるものの、
「自分より上の人があるはずがない。わが身の頼りない身の上を見出され申しただけのことなのだわ」などと、つい思い続けずにはおられず、物思いに沈んでいらっしゃる。手習いなどをするにも、自然と古歌も物思いの歌だけが筆先に出てくるので、

「それでは、私には思い悩むことがあったのだわ」と、自分ながら気づかされる。
 院がお渡りになって、宮、女御の君などのご様子などを「かわいらしくていらっしゃるものだ」とそれぞれを拝見なさったそのお目で御覧になると、長年連れ添っていらした人が、世間並の器量であったならとてもこうも驚くはずもないのに、

「やはり、二人といない方だ」と御覧になるのは、世間にありそうもないお美しさである。
 どこからどこまでも、気品高く立派に整っていらっしゃる上に、はなやかに現代風で、照り映えるような美しさと優雅さとを、何もかも兼ね備え、素晴らしい女盛りにお見えになる。去年より今年が素晴らしく、昨日よりは今日が目新しく、いつも新鮮なご様子でいらっしゃるのを、

「どうしてこんなにも美しく生まれつかれたのか」とお思いになる。
 気軽にお書きになった御手習いを硯の下にさし隠しておられたが、見つけなさって、繰り返して御覧になる。筆跡などの、特別に上手とも見えないが、行き届いてかわいらしい感じにお書きになっていた。
「 身に近く秋や来ぬらむ見るままに青葉の山もうつろひにけり

(私の身近に秋が来たのかしら、いつのまにか青葉の山も色が変わってきたことだ)」
とある所に、目をお止めになって、
「 水鳥の青葉は色もかはらぬも萩のしたこそけしきことなれ

(水鳥の青い羽の色は変わらないのに、萩の下葉の様子は変わっています)」
などと書き加えながら手習いに心をやりなさる。

何かにつけて、おいたわしいご様子が自然に漏れて見えるのを、何でもないふうに隠していらっしゃるのも、またと得がたい殊勝な方だという気がなさる。
 今夜はどちらの方にも行かなくてよさそうなので、あの忍び所に、実にどうしようもなくて、お出かけになるのであった。「とんでもないけしからぬ事」と、ひどく自制なさるのだが、どうすることもできないのであった。

 

《自分から女三の宮との対面を言い出したものの、紫の上の思いは複雑です。

明石の姫君入内の折には輦車を許された自分は、本当は「自分より上の人があるはずがない」ほどの者なのだから、源氏との出会いが、自分の最も不遇な時代ではなく、式部卿宮の姫としてもっときちんとした形であったならば、正室として迎えられていたはずで、今日のようなつらい思いをしなくてすんだのではなかったか、と彼女は考えるのです。今さらながら、かつてあり得ない幸運と思ったことが、今は大変な不運にも思われて、彼女は、手慰みの手習いなどしながら、「物思いに沈んでいらっしゃる」のでした。

かつて朝顔の斎院とのことで抱いた不安(朝顔の巻第三章第一段)が、今、現実のものとなって現れたのです。しかも相手が、彼女のように人としてそれなりの人物ならばともかく、相手にもならない未熟な小娘(と言っては不敬ですが、仕方がありません)らしいとあっては、なおさら心穏やかでありません。

そこに源氏がやって来ます。彼から見える紫の上は、相変わらず素晴らしい女性です。いや、相変わらずではなく、「去年より今年が素晴らしく、昨日よりは今日が目新しく、いつも新鮮なご様子でいらっしゃる」、いわゆる明石の御方に対してしばしば使われた「近まさりする」(第三章第二段3節)する女性なのです。これは人に対する最高の評語なのではないでしょうか。

その上が手慰みに書いていた歌は、季節の推移と共に、私の所にも秋が来て頼みに思っていた山の青さ(源氏の心)も「うつろひにけり」、というものでした。その筆蹟が「特別に上手とも見えないが、行き届いてかわいらしい感じ」だったというのは、以前当代屈指の名筆と源氏が認めていた(梅枝の巻第二章第三段)にしては、さすがに思いの乱れがあったせいなのでしょうか。

こうした、悲しみを表に表さずに、ただ堪え忍ぶ姿は、何とも言えない気品を感じさせます。明石の御方についても挙げたことのある芥川の『手巾』(明石の巻第四章第三段2節)が、ここでも思い出されます。明石の御方の場合は、ひたすら控えめですが、紫の上は明るく華やか人でありながら、さらにこういう一面も持っている、それこそ情調の豊かな人なのです。

しかしこれでも源氏は、今夜は二人の対面があるのだから「どちらの方にも行かなくてよさそう」と考えて、「あの忍び所」(朧月夜の所)に出かけようとするのです。

こういう妙な打算的言い訳はこれまでになかったことで、昔なら同じ紫の上の許から懸命に言い訳をしながら大井の明石の御方の所に通ったように、もっと自然に堂々と行ったでしょう。今は超越した男ではなくて、ただの上の品の一男にすぎない源氏の姿です。

『評釈』は「それが男というものであろうか」と慨嘆し、「紫の上を裏切ること、かくも甚だしい。読者は怒るべきである」と憤って見せながら、「読者は思う。紫の上は不幸である、と」と、そちらに目を向けますが、やはりそう読むべきでしょう。

ただし、それにしても大切な二人の奥方の対面の夜、こういう小ずるい態度で朧月夜の所に行かせたのはやり過ぎで、光る源氏という人の統一性が損なわれていると言われてもやむを得ないという気がします。と言うか、やはり作者にとっては、描きたいのは女性たちであって、源氏はそのために都合よく変幻する狂言回しなのではないでしょうか。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ