【現代語訳】

 六条院は、何となく気が重くて、あれこれと思いお悩みになる。
 紫の上も、このようなお話があると、以前からちらちらお聞きになっていたが、
「決してそのようなことはあるまい。前斎院を熱心に言い寄っていらっしゃるようだったが、ことさら思いを遂げようとはなさらなかったのだから」などとお思いになって、

「そのようなお話があるのですか」ともお尋ね申し上げなさらず、平気な顔でいらっしゃるので、おいたわしくて、
「このことをどのようにお思いになるだろう。自分の心は少しも変わるはずもなく、そのことがあった場合には、かえってますます愛情が深くなることだろうが、それがお分りいただけない間は、どんなにお疑いになるだろう」などと、気がかりにお思いになる。
 長の年月を経たこのごろでは、以前にもましてお互いに心を隔て置き申し上げることもなく、しっくりしたご夫婦仲なので、一時でも心に隔てを残しているようなことがあるのも気が重いのだが、その晩はそのまま休んで、夜明けをお迎えになった。

 

《源氏は、院に女三の宮を引き受けるという約束をしてしまって、改めて紫の上のことを思い、どのように言えるだろうかと、思い悩むことになりました。今さら何を、という感じですが、つまりは彼の欲望がなしたこと、彼はそれを背負うしかありません。

英雄のドラマというのは、避けがたい危機的事態の中でその英雄が読者にもなるほどやむを得ないと思われる選択をして、それが引き起こす事態に見事に立ち向かう時に、または、やむを得ない抵抗にあって滅びる時に、生まれるものだと思います。つまり、事件は必然の連鎖の中で進まなければ、感動は生まれません。

そこには基本的には後悔も反省も生まれる余地はないはずです。

源氏は、あのように承諾しておきながら、帰って紫の上のことを考えると「あれこれと思いお悩みになる」というのは、この物語が、英雄の物語ではなくなったということを意味します。

もちろんそれはそれで一つの物語です。というより、そうなってこそ、英雄の物語から、人間の物語に変わったと言えるわけです。

幾度も言いますが、この物語は、確かに人間の物語に変質して来ているのです。

これまでの源氏に降りかかった不幸は、臣籍降下にしても須磨流謫にしても、みな運命のしからしむるところであって、源氏はそれを決して自分が責めを負うものとは考えていませんでした。

しかし、これから始まる源氏の悩みは、まったく私たちの悩みと同じ質のものになります。彼は、その悩みを、彼は私たちよりもはるかに重く真摯に受けとめていきます。または、受けとめざるを得なくなっていきます。その抱える問題の重さと受けとめる真摯さにおいてこそ、源氏はヒーローであるのだと、私には感じられます。

源氏の煩悶にもかかわらず、朝顔の斎院の時以外は結局彼を信じて疑ったことのない紫の上は、いささかのことを小耳には挟みながら、今も全く彼を信じて、「平気な顔でいらっしゃる」のでした。案外、この人の無垢な可憐さが、いまや童話的・英雄的というべきで、さればこそ読者の憧れかも知れません。この人は大人の女性には人気が薄いのではないでしょうか。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ