【現代語訳】

あの御依頼の冊子を持たせてお越しになったのであった。その場で御覧になると、さほど上手でもないご筆跡だが、ただ一筋にたいそう垢抜けした感じにお書きになっている。歌も、技巧を凝らして風変わりな古歌を選んで、わずか三行ほどに、文字を少なくして好ましく書いていらっしゃった。大臣は驚いて御覧になった。
「こんなにまで上手にお書きになるとは思いませんでした。まったく筆を投げ出してしまいたいほどですね」と、悔しがりなさる。
「このような名手の中で臆面もなく書く筆跡の具合は、いくら何でもさほどまずくはないと存じます」などと、冗談をおっしゃる。
 お書きになった冊子類を、お隠しすべきものでもないので、お取り出しになってお互いに御覧になる。
 唐の紙でたいそう堅い材質に、草仮名をお書きになっているのを、まことに結構であると御覧になるのだが、高麗の紙できめが細かで柔らかく優しい感じで、色彩などは派手でなく優美な感じのする紙に、おっとりした女手で、整然と心を配ってお書きになっているのが、喩えるものがない。
 御覧になる方の涙までが、筆跡に沿って流れるような感じがして、見飽きることのなさそうなところへ、さらに、わが国の紙屋院の色紙の色合いが派手なのに、乱れ書きの草仮名の和歌を、筆にまかせて散らし書きになさったのは、見るべき点が尽きないほどである。型にとらわれず自在に愛嬌があって、ずっと見ていたい気がしたので、他の物にはまったく目もおやりにならない。

 左衛門督は、仰々しくえらそうな書風ばかりを好んで書いているが、筆法の垢抜けしない感じで、技巧を凝らした感じである。和歌などもわざとらしい選び方をして書いていた。
 女君たちのはろくにお見せにならない。斎院のなどは、言うまでもなく取り出しもなさらないのであった。

葦手の冊子類が、それぞれに何となく趣があった。宰相中将のは、水の勢いを豊かに書いて、乱れ生えている葦の様子など、難波の浦に似てあちこちに入り混じって、たいそうすっきりした所がある。また、ぐっとはなやかに趣を変えて、字体、石などの様子を洒落てお書きになった紙もあるようだ。
「目も及ばぬ素晴らしさだ。これは手間のかかったにちがいない代物ですね」と、面白がりお誉めになる。どのようなことにも趣味を持って風流がりなさる宮なので、とてもたいそうお誉め申し上げなさる。

 

《兵部卿宮は頼まれていた自分の書を冊子にして持って来たのでした。源氏は大歓迎で、さっそく今日は書の談義です。

宮の書は「さほど上手でもないご筆跡だが、ただ一筋にたいそう垢抜けした感じ」だったと言いますが、源氏が「驚いて御覧に」なり、「悔しがりなさる」し、宮自身も自讃するほど、すばらしいものでした。

しかし私たちにはよく分からない言い方で、『評釈』が縷々語っています。「思いきったやり方、一般的に認められないやり方も、生まれのよい人がやると認められ、それで通るのである」と言います。我流でも、味があるという書き方を考えればいいのかも知れません。もっとも「書いていらっしゃった」は原文「書きなしたまへり」ですから、それも宮の本来の書き方ではなくて、源氏の期待がそういうところにあると承知して、敢えてそのように書き、その点において見事に書いて見せたということのようで、そうすると、「さほど上手でもない」のに「筆を投げ出してしまいたい」とまで絶賛する理由が理解できます。

源氏も自分の書いたのを持ち出して宮に見せます。こちらは本格的で、「喩えるものがない」ほどですが、その讃え方について『評釈』が「あとほど次第に大仰になる」と面白い点に注目しています。

宮はすっかり感心して、そこにはすでに依頼した人からのものがいくつか届いていたようですが、「他の物にはまったく目もおやりにならない」のでした。

左衞門督の書も届いていましたが、あまり好いものではなかったようで、作者としては前の二人のものとの比較で、さすがお二人は、というつもりなのでしょうが、かえって彼を選んだ源氏の見識にいささか疑問符がつきます。

「宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将など」に注文した「葦手や歌絵」(前段)の方は、それなりの出来だったようです。

「文字を少なくして」も面白いところで、「文字」を漢字ととって、万葉仮名を少なくしているという説と、文字一般ととって、漢字を表意文字として使って、という説(『集成』)とがあるようです。ただ、「漢字を表意文字として和歌に使うことは、つねに稀であった」(『評釈』)ようですから、前者の方かも知れません。》

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