【現代語訳】

「すべての事が、昔に比べて劣って浅くなって行く末世だが、仮名だけは現代は際限もなく発達したものだ。昔の字は、筆跡が定まっているようではあるが、ゆったりした感じがあまりなくて、一様に似通った書法であった。
 見事で上手なものは、近頃になってこそ書ける人が出て来たが、平仮名を熱心に習っていた最中に、難点のない手本を数多く集めていた中で、中宮の母御息所が何気なくさらさらとお書きになった一行ほどの無造作な筆跡を手に入れて、格段に優れていると感じたものだ。
 そういうことで、とんでもない浮名までもお流し申してしまったことよ。残念なことと思い込んでいらっしゃったが、それほど薄情ではなかったのだ。中宮にこのように御後見申し上げていることを、思慮深くいらっしゃったので、亡くなられた後にも見直して下さることだろう。
 中宮の御筆跡は、こまやかで趣はあるが、才気は少ないようだ」と、そっと申し上げなさる。
「故入道宮の御筆跡は、たいそう深味もあり優美な手の筋はおありだったが、なよなよした点があって、はなやかさが少なかった。
 朱雀院の尚侍は、当代の名人でいらっしゃるが、あまりにしゃれすぎて欠点があるようだ。そうは言っても、あの尚侍君と、前斎院と、あなたは、上手な方だと思う」と、お認め申し上げなさるので、
「この方々に仲間入りするのは、恥ずかしいですわ」と申し上げなさると、
「あまりひどく謙遜なさるな。柔らかな点の好ましさは、格別なものなのに。漢字が上手になってくると、仮名は整わない文字が交るようですがね」とおっしゃって、まだ書写してない冊子類を作り加えて、表紙や紐など、たいへん立派にお作らせになる。
「兵部卿宮、左衛門督などに書いてもらおう。私自身も一揃いは書こう。自信がおありでも、並ばないことはあるまい」と、自賛なさる。

 

《これまでこの物語ではいろいろな物の品評がなされてきました。女性についての品評は場所を選びませんが、その他にも、紅葉賀の巻の舞い、絵合の巻の絵、少女の巻の庭、玉鬘の巻の衣、この巻の薫き物、また随所にあった歌や管弦などいろいろですが、ここは書についての品評です。

もちろんそれらは物語の中での品評ですから、もとはと言えば、すべて作者の批評眼による品評です。このように書いて、多くの人に読まれたということは、その批評が支持されたということでしょうから、作者の見識はあらゆる分野に優れていたということなのでしょう。驚くべきマルチぶりです。

書についての源氏の(作者の)蘊蓄について『構想と鑑賞』が、「(先にあった)薫物のことは今日は分からず、興味も起こらない」とずいぶん乱暴に一蹴する一方で、「(源氏の)書道論は今日も生命がある」と言い、「古人の筆蹟は法則に協っているようでも、伸び伸びした豊かな気分がなくて、皆一様であるというが、これは書道史からいってただしい」と保証しています。

しかし私たちには、そういうことよりも、この時にもう十五年も前の話になる六条御息所とのことを思い出して、妻に反省や弁解をしている、どことなく後ろめたそうな姿の方が、よほど気になり、おもしろく思われます。ここにはぜひ紫の上の一言がほしいところですが、残念ながらなにもないままに通過してしまいます。作者はただ書の品評として挙げただけで、反省や弁解は義理で付け加えただけなのでしょう。

「左衛門督」は、これもまた、「ここだけに出る。系図に見えない人」(『集成』)のようです。特に入れる必要のない所だと思うのですが、どうして入っているのでしょうか。作者の頭の中では、きっと具体的な人物が思い描かれていたはずなのですが。》

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