【現代語訳】

 式部卿宮は待ち受けて、たいそうつらくお思いである。母の北の方は泣き騷ぎなさって、
「太政大臣を結構なご親戚とお思い申し上げていらっしゃるが、どれほどの昔からの仇敵でいらっしゃったのだろうという気がします。
 女御にも何かにつけて冷淡なお仕打ちをなさったが、それはお二人の間の恨み事が解けなかったころを思い知れということであったであろうと、思ったりおっしゃったりもし、世間の人もそう言っていた時でも、やはりそうあってよいことではなくて、一人を大切になさるのであれば、その周辺までもお蔭を蒙るという例はあるものだと、納得行きませんでしたが、まして今ごろになって、わけの分からない継子の世話をして、自分が飽きたのを気の毒に思って、律儀者で浮気しそうのない人をと思って、婿に迎えて大切になさるのは、どうして辛くないことでしょうか」と、大声で言い続けなさるので、宮は、
「ああ聞き苦しい。世間から非難されなさることのない大臣を、口に任せて悪くおっしゃるものではない。賢明な方だから、かねてから考えていて、このような報いをしようと思うことがおありだったのだろう。そのように思われるわが身が不幸なのだろう。
 何気ないふうで、すべてあのお苦しみになった当時の報いは、引き立てたり落としたり、たいそう賢くもれなく考えていらっしゃるようだ。私一人は、しかるべき親戚だと思って、先年も、あのような世間の評判になるほどに、わが家には過ぎたお祝賀があった。そのことを生涯の名誉と思って、満足すべきなのだろう」とおっしゃると、ますます腹が立って、不吉な言葉を言い散らしなさる。この大北の方は、性悪な人だったのである。

《娘とその子供たち三人を迎えた式部卿宮邸では、父宮の悲しみはもちろんですが、その奥方・北の方は悲しみを通り過ぎて、源氏に対する憤りで、恨み言を抑えきれません。

かつて姉娘を入内させようとした時も、今の梅壺の女御を立てて邪魔され(澪標の巻第三章第三段、あのころはこの宮は兵部卿でした)、またその後同じように立后もならなかった(少女の巻第三章第一段)ことの恨みを、改めて思い起こして憤ります。

それについては、宮が、源氏が須磨流謫の折の自分たちの(実は主として北の方の)言動がよくなかった(須磨の巻第一章第三段1節)から、仕方がないのだと話していたようなのですが、北の方にしてみれば、それでも紫の上をあれほど大事にしている(一人を大切になさるの)なら、その一族である自分たちに相応のお気遣いがあってしかるべきだという気がするのです。

それに、あの時からもうずいぶん時が経っているのに、いまだにそれを根に持って、大将に訳の分からぬ姫をあてがって、自分の娘に辛い思いをさせるなど、まったく意図的に企んだことに違いない、と見えるようです。

宮はあまりなことを大きな声で言われて、人に聞かれたりしては、ことは面倒になるばかりですし、彼自身は、六条院完成の折りに五十の賀を催して貰って面目を施している(少女の巻第七章第三段、もっともこのことも北の方にはおもしろくないことに思えたのでしたが)こともあって、取りあえずは必死のなだめ役です。

ここまで作者は二人のやりとりを克明に語ってきたのですが、最後は北の方に冷たく、「この大北の方は、性悪な人だったのである」と一言で切り捨ててしまいました。》

 今日、これを投稿し終わってたまたま新聞を見たら、ここでも読ませていただいている『源氏物語の論』、『源氏物語の世界』の著者・秋山虔先生の訃報が載っていました。お礼と共に、深く哀悼の意を表したいと思います。

  謝意を表する意味で、その新聞記事の一部をここに引かせてもらいます。

 「『源氏物語』研究の第一人者で文化功労者。91歳。東大名誉教授。源氏物語を中心とする平安朝文学研究で大きな功績を残した。2001年、皇太子ご夫妻の長女愛子さまが誕生した際には、『勘申(かんじん)者』の一人として名前と称号の命名案を天皇陛下に上申。『源氏物語の世界』、『平安文学の論』など著書多数。」

  ご存命中に先生のお説を引用したのは、私が最後の人間かも知れない(藤袴の巻冒頭で、十月二十五日でした)、などと不謹慎な感慨を抱きます。
ご冥福をお祈りします。


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