【現代語訳】5

 まだ見たことのないお姿であったが大変にはっきりとあの方と察しの付けられる御横顔を見逃さないで、さっそく詠みかけたのに、返歌を下さらないで時間が過ぎたので、少しきまりの悪い思いでいたところに、このようにわざわざというふうに返歌があったので、いい気になって、「何と申し上げよう」などと言い合っているようだが、身の程知らずなことだと思って、随身は帰ってしまった。

 御前駆の松明を弱く照らして、とてもひっそりとお出になる。夕顔の家の半蔀は既に下ろされていた。隙間から見える灯火の明りは、蛍よりもさらに微かで物淋しい。

 お目当ての所では、木立や前栽などが、世間一般の所とは違い、とてもゆったりと奥ゆかしく住んでいらっしゃる。気の置けるほど気品のあるご様子などが、他の人とは格別なので、先程の垣根の女などはお思い出されるはずもない。

 翌朝、少しお寝過ごしなさって、日が差し出るころにお帰りになる。朝帰りの姿は、なるほど世間の人がお褒め申し上げるようなのも、ごもっともなお美しさであった。

 今日もこの半蔀の前をお通り過ぎになる。今までにも通り過ぎなさった辺りであるが、わずかちょっとしたことでお気持ちを惹かれて、「どのような女が住んでいる家なのだろうか」と思っては、行き来につけてお目が止まるのであった

 

《「灯火の明りは、蛍よりもさらに微かで物淋しい」は、「夕されば蛍よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき」(『古今集』巻十二恋二)によるものです。

蛍の火よりも強く燃えていても人はつれないというのに、この家の灯りは蛍よりもかすかなのだから、源氏は当然「つれなく」立ち去っていくのだ、という気分が、作者の洒落としてあって、それが次の「先程の垣根の女などはお思い出されるはずもない」につながるように思われます。

そういう女と対照的に「お目当ての所」、つまり「六条辺り」の方はまったく「他の人とは格別」なのです。

しかし、作者の思いはそうであっても、源氏はそうではありません。左馬頭の話(帚木の巻)が心に残っているからでしょうか、朝帰りの途中に夕顔の家の前をふたたび通りかかって、昨夜の歌の贈答を思い出して、ふとその夕顔の家のことが気になります。そしてひとたび心に掛かったことは、回を重ねる毎に、その関心を強めていきます。》

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