【現代語訳】

 お戻りあそばすというので、女房たちがざわめき、几帳を元に直したりする。先ほど見た花のような二人の顔とも比べて見たくて、いつもは覗き見など関心のない人なのに、無理に妻戸の御簾に身体を入れて几帳の隙間を通して見ると、ちょうど物蔭からそっとお通りになるところが、ふと目に入る。女房が大勢行き来するので、細かいところは見えないので、たいそうじれったい。薄紫色のお召物に、髪はまだ背丈には届いていない末が広がったような感じで、たいそう細く小さい身体つきが可憐でいじらしい。
「一昨年ぐらいまでは、時々ちらっとお姿を拝見したが、またすっかり成長なさったようだ。まして盛りになったらどんなに美しいだろう」と思う。

「あの前に見た方々を、桜や山吹と言ったら、この方は藤の花と言うべきであろうか。木高い木から咲きかかって、風になびいている美しさは、このような感じだ」と思い比べられる。

「このような方々を、思いのままに毎日拝見していたいものだ。そうあってもよい身内の間柄なのに、事ごとに隔てを置いて厳しいのが恨めしいことだ」などと思うと、誠実な心も、何やら落ち着かない気がする。

《姫が紫の上のところから帰ってきます。

実は夕霧も、一昨年位前にはもう少し気軽に見ることができたようですが、この頃この姫を直接見る機会はなかったようで、今も「無理に妻戸の御簾に身体を入れて几帳の隙間を通して」でなくては、見ることができません。女の子の六歳と八歳はこのように違うということでしょうか。後見を期待されている妹だというのに、これほどの隔てが置かれるというのは、理解しがたい気がしますが、そういうものだったのでしょう。

「いつもは覗き見など関心のない人」という夕霧評も驚かされます。紫の上を垣間見た時も玉鬘の時も、十分関心がありそうでした。ここは一般の女性に関してのことであって、六条院の女君たちは別だということなのでしょうか。作者はこの人を生真面目な堅物というイメージで描こうとしています。

ともあれ、明石の姫君の姿が、こうして夕霧の目を通して、初めて読者の前に少し明らかになりました。それは「たいそう細く小さい身体つきが可憐でいじらしい(原文・いと細く小さき様体、らうたげに心苦し)」という具合で、いかにも少女らしい姿です。

彼は姫を、例によって花にたとえて、垂れ下がって揺れて咲いている藤の花だと見ながら、「このような方々を、思いのままに毎日拝見していたいものだ」と考えます。

しかし考えてみると、女性を、花を見るように見るというのは、ずいぶん子どもっぽい見方です。彼もまだ十五歳、当時でも思春期をちょっと越えた程度というところなのでしょうか。源氏は、と思って物語をふり返ってみると、ちょうどこの前後、十三歳から十六歳は桐壺の巻と帚木の巻の間で抜け落ちています。》

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