【現代語訳】2

 今はただ一通りのご夫婦仲で、お寝床なども別々にお寝みになる。「どうしてこのよう疎々しい仲になってしまったのだろう」と、殿はつらくお思いになる。だいたいが、何のかのと嫉妬めいたことも申し上げなさらず、長年このように折節につけた遊び事を、人づてにお聞きになっていらっしゃったのだが、今日は珍しくこちらであったことだけで自分の町の晴れがましい名誉とお思いでいらっしゃった。
「 その駒もすさめぬ草と名に立てる汀のあやめ今日や引きつる

(馬も食べない草として有名な水際の菖蒲のような私を、今日は節句なので、引き立

てて下さったのでしょうか)」
とおっとりと申し上げなさる。たいしたことではないが、しみじみとお感じになった。
「 にほどりに影をならぶる若駒はいつかあやめに引き別るべき

(鳰鳥のようにいつも一緒にいる若駒の私は、いつ菖蒲のあなたに別れたりしましょ

うか)」
 遠慮のないお二人の歌であること。
「いつも離れているようですが、こうしてお目にかかりますのは、心が休まります」と、冗談ではあるが、のんびりとしていらっしゃるお人柄なので、しんみりとした口ぶりで申し上げなさる。
 御帳台はお譲り申し上げなさって、御几帳を隔ててお寝みになる。共寝をするというようなことを、たいそう似つかわしくないこととして、まったく考えてもいらっしゃらないので、無理にお誘い申し上げなさらない。



《胸に一物を抱きながら男たちの評をすれば、紫の上なら、案外源氏の真意を読み取って、皮肉の一つも言ったかも知れませんが、その点、この花散里は、玉鬘の巻第四章第六段で挙げた『人物論』所収・沢田正子著「花散里の君~虚心の愛~」の言う「母のような姉のような愛で包みしばしの休養を提供する」ような人ですから、安心して話すことができました。

ひときり話して源氏は、今日はそこに泊まることにしますが、ここで二人の特異な関係が具体的に語られます。

この夜、二人は「今はただ一通りのご夫婦仲で、お寝床なども別々にお寝みになる」のでした。それを源氏は、どうしてそうなってしまったのだろうと、「つらくお思いになる」というのですが、これは私の訳で、ここの原文「苦しがりたまふ」を諸注は、「気の毒にお思いになる」(『集成』)、「こまっていらっしゃる」(『評釈』)、「物足りなくお思いになります」(『谷崎』)とさまざまな読み方を示しています。

私の訳は、相手に悪いとか、自分が残念だとか、そういうことではなくて、こういうことでいいのだろうかと、気まずい気持になっているという気持でのものですが、どうでしょうか。

しかし、花散里の方は、共寝など「まったく考えてもいらっしゃらない」のでした。この部分、原文は「思ひ離れ果てきこえたまへれば」で、先の諸注は、いずれも、共寝を「すっかりお諦め申していらっしゃるので」と訳しています。しかし「諦めている」というのは、本当は希望があるのだが、というニュアンスが感じられて(もちろん、てんからそれが全くないというのではないでしょうが)、例えば『評釈』が言うように、「自分の夫というよりもむしろ、お客様といった感じ」で応対しているのでしょう。

途中、「冗談ではあるが」(諸注同じ)がよく分かりません。「心が休まります」は源氏の本音のはずですが、どうしてこれが「冗談(原文・たはぶれ)」になるのでしょう。さらにそれが、「しんみりとした口ぶりで申し上げなさる」となると、いっそうです。ちょっと気休めを言った、というような気持ちなのでしょうか。》

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