【現代語訳】

 雨が少し降った後の、とてもしっとりした夕方、お庭先の若い楓や柏の木などが青々と茂っているのが、何となく気持ちよさそうな空をお覗きになって、「(四月の天気)和して且た清し」とお口ずさみなさって、まずはこの姫君のご様子の、つややかな美しさが思い出されなさって、いつものようにそっとお越しになった。
 手習いなどをしてくつろいでいらっしゃったが、起き上がりなさって、恥ずかしそうにしていらっしゃる顔の色の具合は、とても美しい。物柔らかな感じが、ふと昔の母君が思い出されなさるにつけても、堪えきれなくて、
「初めてお会いした時は、とてもこんなにも似ていらっしゃるまいと思っていましたが、不思議と、まるでその人かと間違えられる時々が何度もあります。感慨無量なことです。中将が少しも昔の母君の美しさに似ていないのに見慣れて、そんなにも親子は似ないものと思っていたが、このような方もいらっしゃったのですね」とおっしゃって、涙ぐんでいらっしゃる。箱の蓋にある果物の中に、橘の実があるのをいじりながら、
「 橘のかをりし袖によそふればかはれる身とも思ほえぬかな

(あなたを昔懐かしい母君と比べてみますと、とても別の人とは思われません)
 いつになっても心の中から忘れられないので、慰むことなくて過ごしてきた歳月だが、こうしてお世話できるのは夢かとばかり思ってみますと、なおさら堪らない気がします。お嫌いにならないでくださいよ」と言って、お手を握りなさるので、女君は、このようなことに経験がおありではなかったので、たいそういやに思われたが、おっとりとした態度でいらっしゃる。
「 袖の香をよそふるからに橘のみさへはかなくなりもこそすれ

(懐かしい母君とそっくりだと思っていただくと、我が身までが同じようにはかなく

なってしまうかも知れません)」
 困ったと思ってうつ伏していらっしゃる姿は、たいそう魅力的で、手つきのふっくらとしていらっしゃるところ、体つき、肌合いがきめこまやかでかわいらしいので、かえって物思いの増す心地がなさって、今日は少し思っている気持ちをお耳にお入れになった。

《これまで幾度も見てきた、源氏の口説きの場面です。例によって例の如く、という気がしますが、前段までのおずおずした感じが前提になるところがこれまでとは大きく異なります。

ここで『評釈』は、玉鬘が源氏について「男を思う女の気持」を持っていたとして、源氏の突然の訪れに際して「それを隠す余裕がなかった」と言っていますが、ここまでのところでは彼女についてそういう話は書かれていないように思います。いつ実父に会わせて貰えるかということが最大の関心事であって、源氏を男性として見る目はまだなく、ここの羞じらいは、まだ物慣れない娘の一般的なそれとして考えるのがいいようです。

第一段の歌の応答にも見られたように、今現在、取りあえずは素直に源氏の庇護を受けるのがいいと考えているのであって、また源氏はそういう素直さに余計に引かれていくのだと思われます。

そういう彼女に源氏は、夕顔に似ていることからいっそう思いが募って(と言うか、そのことをダシにして、と言うべきか)、少しずつ本音を語り始めます。「橘の実があるのをいじりながら(原文・橘のあるをまさぐりて)」というのが、ためらいがちに聞こえておかしいのですが、そこから「お手を握りなさる」となるのがなんとも唐突です。

玉鬘はさぞ驚いただろうと思われるのですが、作者はそのことには触れないで、「たいそういやに思われたが、おっとりとした態度」だったと言います。ここでも『評釈』は、「そんな(いやだという)気持を表しては、反応を示したことになり相手を刺激してしまう。そこで気づかないふりをする」と言いますが、そういう手管を考えるような場慣れた人ではなく、もっと素直な人ではないでしょうか。彼女はここまでは取りあえず実の娘として振る舞っているだけと考えたいところです。

ところが庇護者であるはずの源氏が、手を取っただけではなくて、「今日は少し思っている気持ちをお耳に入れなさった」のです。ここで初めて彼女は源氏の気持ちを知ることになったのです。

玉鬘の歌の前のところで、作者はこの人を「女」と呼んでいます。源氏の思いが募ったことを表しているということなのでしょう。

途中、「中将(夕霧)が少しも昔の母君の美しさに似ていない」というのが意外です。彼も若手の中では、屈指の貴公子であった(少女の巻第五章第三段)はずですが、単なる父親の謙遜なのでしょうか、あるいは、いささか生真面目すぎるこの若者は、源氏から見ると、物足りなく思われていたということなのでしょうか。》

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