【現代語訳】

 お手紙を、殿の中将の君から差し上げさせなさった。
「 花園の胡蝶をさへや下草に秋まつむしはうとく見るらむ

(花園の胡蝶をも、下草に隠れて秋を待つ松虫はつまらないと思うのでしょうか)」
 中宮は、「あの紅葉の歌のお返事なのだわ」と、微笑んで御覧あそばす。昨日の女房たちも、「ほんとうに、春の美しさは、とてもお負かしになれないわ」と、花にうっとりして口々に申し上げていた。

鴬のうららかな声に、「鳥の楽」がはなやかに響いてきて、池の水鳥もあちこちとなく囀りわたっているうちに、「急」になって終わる時、名残惜しく面白い。「蝶の楽」は、「鳥の楽」以上にひらひらと舞い上がって、山吹の籬のもとに咲きこぼれている花の蔭から舞い出る。
 中宮の亮をはじめとして、しかるべき殿上人たちが、禄を取り次いで、童女に賜る。鳥の童女には桜襲の細長、蝶の童女には山吹襲の細長を賜る。前々から準備してあったかのようである。楽の師匠たちには、白の一襲、巻絹などを、身分に応じて賜る。中将の君には、藤襲の細長を添えて、女装束をお与えになる。お返事は、
「昨日は声を上げて泣いてしまいそうでした。
  胡蝶にもさそはれなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば

(胡蝶にも誘われたいくらいでした、八重山吹の隔てがありませんでしたら)」
とあったのだ。

立派にたしなみを積まれたお二方だが、このような論争は荷がかち過ぎたのであろうか、想像したほどに見えないお詠みぶりのようである。
 それはそうと、あの見物の女房たちで、宮付きの人々には、皆立派な贈り物をいろいろとお遣わしになった。そのようなことは、こまごまとしたことなので話すと煩わしい。
 朝に夕につけ、このようなちょっとしたお遊びも多く、ご満足にお過ごしになっているので、仕えている女房たちも、自然と憂いがないような気持ちがして、あちらとこちらとお互いにお手紙のやりとりをなさっている。

 

《童女たちを連れて使者として来たのは、中将の君(夕霧)でした。紫の上からの歌は、かつて少女の巻末で中宮が送った歌(心から春まつ園はわがやどの紅葉の風をつてにだにせよ)に対抗してのものでした。

歌の「胡蝶」を、送ってきたかわいい童女たちを暗示するものと読んで、『評釈』は「秋待つ松虫は、春はもちろんのこと、その春の胡蝶をもおいやがりあそばしましょうね。しょうがございませんこと」と楽しく巧みに解釈しています。

中宮は、参ったなあと(女言葉では何というのでしょう)御覧になります。実際昨日のあの隣の賑わいには、自分でもさすがだと心引かれたのでしたし、今日もこの自分の催しに花を添えてくれる美しい童女たちを見れば、決して「うとく見る」気持にはなりません。しかし中宮という地位の余裕がありますから、微笑んで、春秋の競い合いの負けを、というより、相手の素晴らしさを認める気持になります。それを察して昨日の女房たちも安心して春の園の素晴らしかったことを申し上げ、語り合うのでした。

春秋優劣論争といいますが、二人は決して争っているわけではありません。そう言いあうことで、遊んでいるわけで、それがこの人たちの文化なのです。文化は、文明と違って、基本的に遊びであり、結局はどうでもいいことに対する、まじめなこだわりなのだと言っていいでしょう。

華やぎの中に、中宮の第一日目が終わります。中宮は、気持ちよく相手の見事さを讃える歌を返します。作者は、二人のファーストレデイにしては歌が下手だと、一応謙遜して見せますが、それもまた、彼女の戯れと見ることもできます。

巻頭でも触れたように、この節もまた、この競い合いをする二人のむつまじさを語ることで、六条院の栄華を描いているのですが、同時に、特にこの二人については、作者の考える全く翳りのない理想的な女性を描いているとも言えそうです。》


にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ