【現代語訳】

 夜がすっかり明けてしまったので、ご婦人方は御殿にお帰りになった。大臣の君は少しお寝みになって、日が高くなってお起きになった。
「中将の君は、弁少将に比べて少しも劣っていないようだったな。不思議と諸道に優れた者たちが出る時代なのだな。昔の人は本格的な学問では優れた人も多かっただろうが、風雅の方面では、最近の人より勝れているわけでもないようだ。中将などは、生真面目な官僚に育てようと思っていて、自分のようなとても風流に偏った融通のなさを真似させまいと思っていたことだ。やはり心の中は多少の風流心も持っていなければならない。とりすまして真面目な表向きだけでは、けむたいことだろう」などと言って、たいそうかわいいとお思いになっていた。

「万春楽」を、お口ずさみになって、
「ご婦人方がこちらにお集まりになった機会に、どうかして管弦の遊びを催したいものだ。私的な後宴をしよう」とおっしゃって、弦楽器などが、いくつもの美しい袋に入れて秘蔵なさっていたのを、皆取り出して埃を払って、緩んでいる絃を、調律させたりなどなさる。御婦人方は、たいそう気をつかったりして、緊張をしつくされていることであろう。

 

《翌日、日が高くなっての、昨夜の名残です。

「弁少将」は内大臣の次男、幼少の折の賢木の巻に十歳位の少年として出て来た時から、歌(詠む和歌ではなく、歌を歌うこと)の名手と称えられていました。昨日の夕霧は、その人に劣らなかったと、源氏は親ばかぶりを発揮しながら、満足の態です。

『評釈』は、弁少将はこの後も、歌の道の達人として幾度か出てくるが、夕霧がそう言われることはない、と冷たく考証しています。まったくの親ばかということになりますが、むしろ、源氏よりも作者がそう言いたかったのであって、昨夜の華やぎを描いた余韻が作者の方に残っているのだと思われます。

ここは六条院の春爛漫を語っているのであって、以下に語られる「私的な後宴」の計画を語るのも、同じ意味でしょう。

従って、その話は実際に描かれる必要はなく、この曼荼羅巡礼の巻は、こうして華やぎの中に幕を閉じます。

しかし改めてふり返ると、ここでは全てが並列的に語れて、新しい出来事はありませんでしたし、登場人物も、花散里の特異な立場と明石の御方の存在感を除けば、格別の新しい側面も、語られることがありませんでした。

『構想と鑑賞』が、「この巻をよくいえば、優雅繊細で温かい情愛が流れている目出度い物語であり、当時の宮廷人は、そのような意味で受け入れたのであろうが、今日からみると生温くて突込みが浅く、極端にいえば、平凡安逸の風俗描写に過ぎないともいえる」と酷評していますが、それももっともと思われます。

しかし、『戦争と平和』でも、冗漫に思えて跳ばして読むしかないように思われるところがずいぶんある(そこにいくと、『罪と罰』は全編がスリルとサスペンスの連続で、息つく暇がない、という気がします。一つの事件を描く作品と、大河ドラマとの違いでしょう)ことを思えば、長編物語には、そういう、時代の制約を受けたり、作者の個人的関心が書かせたと思われたりするところがあるのは、許されることではないかという気がします。そういうことを含めて、物語がゆったりと進んでいくのも、ひとつの醍醐味とでも言いましょうか。》


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