【現代語訳】1

 このように騒がしい馬や車の音をも、遠く離れてお聞きになる御方々は、極楽浄土の蓮の中の世界で、まだ花が開かないで待っている心地もこのようなものかと、心穏やかではない様子である。

それ以上に、二条東の院に離れていらっしゃる御方々は、年月とともに、所在ない思いばかりが募るが、「世の憂きめ見えぬ山路(思う人を忘れて心の安らぐ山路)」に入った気持になって、薄情な方のお心を、お咎め申そうとは思わない。その他の不安で寂しいことは何もないので、仏道修行の方面の人は、それ以外のことに気を散らさず励み、仮名文字のさまざまの書物の学問にご熱心な方は、またその願いどおりになさり、生活面でもしっかりとした基盤があって、まったく希望どおりの生活である。忙しい数日を過ごしてからお越しになった。
 常陸宮の御方は、ご身分があるので、気の毒にお思いになって、人目に立派に見えるように、たいそう行き届いたお扱いをなさる。

以前、盛りに見えた御若髪も、年とともに衰えて行き、今はまして滝の淀みに負けない白髪の御横顔などを、気の毒とお思いになると、面と向かって対座なさらない。柳襲はやはり不似合いだと見えるのも、お召しになっている方のせいであろう。光沢のない黒い掻練の、さわさわ音がするほど張った一襲の上に、その織物の袿を着ていらっしゃるのが、とても寒そうでいたわしい感じである。襲の衣などは、どうしてしまったのだろうか、お鼻の色だけは、霞にも隠れることなく目立っているので、お心にもなくつい嘆息されなさって、わざわざ御几帳を引き直して隔てなさる。

かえって女君の方がそのようにはお思いにならず、今はこのようにやさしく変わらない愛情のほどを、安心に思い気を許してご信頼申していらっしゃるご様子は、いじらしく感じられる。

このような面でも、普通の身分の人とは違って、気の毒で悲しいお身の上の方だとお思いになると、かわいそうで、せめて私だけでもと、お心にかけていらっしゃるのも、めったにないことである。

 

《さて、六条院の曼荼羅巡礼が、日を改めてもう少し続きます。

正月、紫の上のいる東の邸は、源氏の居所ですから、当然賑わっています。また、東の邸も玉鬘の入った西の対には、彼女目当てのたくさんの公達が出入りします。

それに引き替え明石の御方や花散里のところは、源氏から篤い信頼や情愛を受けているといっても、それに比べればひっそりとしているようで、二人の気持ちは「心穏やかではない様子」です。

しかしそれにもまして、東院の末摘花と空蝉は、この正月の華やぎからすっかり忘れられた寂しい生活をしています。彼女たちは、身の程を知って、源氏を恨む気持など毛頭抱かず、生活面での心配がないだけでも満足しなければならないと思って、気ままな暮らしをしています。

そういうところにも源氏はともかく忘れずに訪ねていきます。

まずは末摘花ですが、行ってみると、すっかり白髪になっていて(この人の年齢は特定しがたいようですが、今源氏は三十六歳ですから、その相手をしたこの人が、「すっかり白髪」というのは、ちょっと解せません。面白く誇張したということなのでしょうか)見るのも気の毒で源氏は横を向いて座ります。折角立派な衣裳を贈ったのですが、彼女では似合いませんでした。「色合いを考えず、手あたりしだいに着たらし」く(『評釈』)、「寒そうでいたわしい感じ」です。そこに、相変わらずの赤い鼻先がとんがっていて、源氏は改めてげんなりしてしまい、「わざわざ御几帳を引き直して隔てなさる」のでした。

しかし女君の方は、そういう振る舞いにも一向頓着なく、ただ源氏が世話をしてくれて、今日はこうして訪ねてくれることに満足して、「やさしく変わらない愛情」と思い、すっかり安心し、信頼しているようです。

物事が分かっていないだけだとも言えますが、純粋で素直な人柄であることは間違いなく、最後の「いじらしく感じられる」は、作者の感想であると同時に、源氏の気持ちでもあるでしょう。》


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