【現代語訳】

 夏のお住まいを御覧になると、その時節ではないせいか、とても静かに見えて、特別に風流なこともなく、品よくお暮らしになっている様子がここかしこに窺える。
 年月とともにお心の隔てもなく、しみじみとしたご夫婦仲である。今では、しいて男女の仲といったご様子にもお扱い申し上げなさらないのであった。たいそう仲睦まじく世にまたとないような夫婦の約束といったことを、互いに交わし合っていらっしゃる。御几帳を隔てているが、少しお動かしになっても、そのままにしていらっしゃる。
「縹色のお召物は、まったくはなやかでない色合いで、お髪などもたいそう盛りを過ぎてしまったことだ。恥ずかしいと言うほどではないが、かもじを使ってお手入れをなさればよいのに、私以外の人だったら、愛想づかしをするに違いないご様子を、こうしてお世話することは嬉しく本望なことだ。考えの浅い女と同じように、私から離れておしまいになったら」などと、お会いなさる時々には、まずは、

「わたしの変わらない愛情も、相手の重々しいご性格も、嬉しく理想的だ」とお考えになるのだった。

こまごまと、旧年中のお話などを親密にお話し申し上げなさって、西の対へお越しになる。

 

《花散里については、玉鬘が六条院に入った話のところ(玉鬘の巻第四章第六段)で少し詳しく触れましたが、ここで見ると、作者の彼女に対する評価は大変高いものがあり、源氏との間柄も「たいそう仲睦まじく世にまたとないような夫婦の約束といったこと」を交わしていると言います。

にもかかわらず、「今では、しいて男女の仲といったご様子にもお扱い申し上げなさらないのであった(原文・今は、あながちに近やかなる御ありさまも、もてなしきこえたまはざりけり)」ということになっていると言うのですが、大変奇異に感じられます。

あの源氏が、それほどに評価しながら、なぜ「男女の仲」とならないのかと言えば、彼女の場合、「容貌の不備という物語の女人としては致命的な欠陥」(前掲『人物論』所収論文「花散里の君~虚心の愛」)による以外に、理由が見あたりません。

「縹色のお召物」は暮れに源氏が贈った物です(玉鬘の巻第五章第一段)が、それが「まったくはなやかでない色合い」だったとは、「これは、この人を引き立てていない」(『評釈』)ということのようで、紫の上と源氏が二人して選んだ物が似合わない以上、それはそれほどに本人の造作が悪いということなのでしょうか。

しかし、人柄に惚れ込めば、容貌のことは自然と関心から薄れていくし、容貌がどうしても気に入らなければ、これほど「変わらない愛情」を持ち続けるのは難しいというのが普通ではないだろうかと、不思議で、容貌への不快と人柄への愛が双方とも高いレベルのままで同居するというのは無理ではないかという気がします。

ただ、彼女自身のあり方は、先の所であった「涼やかな透徹した明るさ、心温かさが生命」という評が妥当なのだろうということは、ここの話でも垣間見えると言えます。

やはり、そういう女性を存在させるために、源氏が必要だったのだ、というふうに考えたくなります。

さて、源氏はこの邸の西の対、つまり玉鬘の姫の所に向かいます。》

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