【現代語訳】

 姫君のところにお越しになると、童女や下仕えの女房たちなどが、お庭先の築山の小松を引いて遊んでいる。若い女房たちの気持ちも、じっとしていられないように見える。北の御殿から、特別に用意した幾つもの鬚籠や、破籠などをお差し上げになっていた。素晴らしい「五葉の松の枝に移り飛ぶ鴬」も、思う子細があるのであろう。
「 年月をまつにひかれて経る人にけふ鶯の初音聞かせよ

(長い年月会えるのを待ち続けている私に、今日は初便りを聞かせて下さいください)
 『音せぬ里の(鶯の声の聞こえない所にいる私に)』」とお申し上げになったのを、「いかにも、かわいそうに」とお感じになる。正月に縁起でもない涙だが、堪えきれない様子である。
「このお返事は、ご自身が申し上げなさい。初便りをお控えになるべき方でもありませんよ」とおっしゃって、御硯を用意なさって、お書かせ申し上げなさる。

たいそうかわいらしくて、朝な夕なに拝見する人でさえ、いつまでも見飽きないとお思い申すお姿を、今まで会わせないで年月が過ぎてしまったのも、「罪作りで、気の毒なことだ」とお思いになる。
「 ひきわかれ年は経れども鶯の巣立ちし松の根を忘れめや

(別れて何年も経ちましたが、私は生みの母君を忘れましょうか)」
 子供心に思ったとおりに、くどくどと書いてある。

 

《ここで先に言ってしまいますと、『構想と鑑賞』が、この巻について「要するにこの巻は女人曼荼羅の中心に、源氏が菩薩として座を占めているようで、めでたい世界の描写である」と言っています。というわけで、読者は源氏とともにその曼荼羅巡礼に出かけることになります。

まずは近いところで、明石の姫君のところを訪ねます。彼女は今や、源氏にとって、その将来への希望を最も強く担っている人です。

行ってみると、子の日の遊び、小松引き(小松を根ごと引き抜いて持ち帰り、長寿を祝う風習だそうです)をしてかわいらしく楽しんでいました。

見ると、実母の明石の御方からの贈られた「特別に用意した幾つもの鬚籠や、破籠など」があり、それに五葉の松に止まった鶯の細工物が添えられていました。「思う子細があるのであろう」は御方から託された思いがあろう、の意味でしょうか。

その松には文が結ばれて来ていたのであって、源氏はそれを見ました。母の娘を恋う歌です。御方にしてみれば、「三歳に冬に姫を手放して満四年を過ごしての新春」(『評釈』)なのでした。巻の名はこの歌に由来します。

その切ない歌に、源氏は、我がした事ながら涙をこぼさずにはいられません。みずから硯を差し出して返事を書かせます。その書く様子のかわいらしい姿を見ながら、いっそう御方に対してすまない気持ちになります。

「くどくどと書いてある」は草子地で、『集成』は姫の歌に対する評と見ているようですが、歌に添えて書かれた、他の内容を言っているのではないでしょうか。

めでたさと華やぎに満ちたこの六条院の世界の中の、ただ一つの悲哀の影です。》