【現代語訳】

 母君のお行方を知りたいと思って、いろいろの神仏にお祈り申して、夜昼となく泣き恋い焦がれて、心当たりの所々をお探し申したが、結局尋ね当てることができない。
「それならばしかたがない。せめて姫君だけでも、母君のお形見としてお世話申そう。卑しい旅にお連れ申して、遥かなところにおいでになるのはおいたわしいこと。やはり父君にそれとなくお話し申し上げよう」と思ったが、適当な手立てもないうちに、
「母君のおられる所も分からないで、お訊ねになられたら、どのようにお返事申し上げられようか」
「まだ、十分に見慣れておられないのに、幼い姫君をお手許にお留め申されるのも、やはり気がかりなるでしょう」
「お知りになりながら、またやはり筑紫へ連れて下ってよいとは、お許しになるはずもない」などと、お互いに相談し合って、とてもかわいらしく、今から既に気品があってお美しいご器量を、格別の設備もない舟に乗せて漕ぎ出す時は、とても哀れに思われた。
 子供心にも、母君のことを忘れず、時々、

「母君様の所へ行くの」とお尋ねになるにつけて涙の止まる時がなく、娘たちも思い焦がれているが、舟路に不吉だと、泣く一方では制するのであった。
 美しい場所をあちこち見ながら、
「気の若い方でいらっしゃいましたが、こうした道中をお見せ申し上げたかったですね」
「いいえ、いらっしゃいましたら、私たちは下ることもなかったでしょうに」と、都の方ばかり思いやられて、寄せては返す波も羨ましく、かつ心細く思っている時に、舟子たちが荒々しい声で、「うらかなしくも遠く来にけるかな」と謡うのを聞くなり、二人とも向き合って泣いたのであった。
「 舟人もたれを恋ふとか大島のうらがなしげに声の聞こゆる

(舟人も誰を恋い慕ってか大島の浦に、悲しい声が聞こえます)」
「 来し方も行方も知らで沖に出でてあはれいづくに君を恋ふらむ

(来た方角も行方も分からない沖に出て、ああどちらを向いて女君を恋えばよいので

しょう)」
 遠く都を離れて、それぞれに気慰めに詠むのであった。
 金の岬を過ぎても、「我は忘れず」などと、明けても暮れても口ぐせになって、あちらに到着してからは、まして遠くに来てしまったことを思いやって、恋い慕い泣いては、この姫君を大切にお世話申して、明かし暮らしている。夢などにごく稀に現れなさる時などもある。同じ姿をした女などと一緒にお見えになるので、醒めた後気分が悪く病気になったりなどしたので、
「やはり、亡くなられたのだろう」と諦める気持ちになるのも、とても悲しい思いである。

 

《さて、ここからしばらくは、その姫君の方の話です。

まず筑紫下向に姫を伴うと話が決まる前のことです。母の夕顔を手を尽くして探しますが、行方が知れません。さてどうしようと、鳩首協議の趣です。何と言っても左大臣家御曹司の姫ですから、まずは父・頭中将に会わせようかとの話も出ますが、それも円満にはいかないだろうとなって、結局は伴っていくことにしての船出です。

 以前、末摘花の叔母が夫の太宰府大弐の勤務が決まった時に、彼女を連れて行こうとしましたが、あの時叔母はそれを栄転と捉えて、「旅先に思いを馳せて、とても気分よさそう」(蓬生の巻第二章第三段)でしたが、こちらは泣きの涙での旅です。

太宰府への旅は標準三十日だったそうです。男達にとっては、あるいは太宰府の少弐は、九州を統括する役所の№3くらいの地位ですから、魅力的なものではなかったかと思われますが、女性にとっては、ただ「まして遠く(原文・まいてはるかなるほど)」であっただけですから、道中に「美しい景色」はあったものの、そちらに目は行かず、ただ都を離れる悲しみだけだったようです。特に作者のような立場から見ればなおさらそのような想像しかできないでしょう。

道中、姫が「母君様の所へ行くの」(この姫の物語中最初の言葉)と問いかけることがあり、それも一度ならず「時々(原文・をりをり)」だったと、涙を誘います。この作者は子役の使い方も巧みです。

「二人とも向き合って泣いた」という「二人」は、その前の「娘たちも思い焦がれている」という、ある乳母の娘のようで、この二人はこの第四段で改めて役割を持って登場します。

太宰府勤務は五年が定めだったようで(『集成』)、これもまた決して短い期間ではありません。

乳母は筑紫についても、ただ夕顔のことばかりを思っていたようで、夢に夕顔が現れることもありました。ところがそこには「同じ姿をした女」が一緒にいたと言います。あの「なにがしの院」で現れた女と同じ女という意味でしょうか、乳母はそのことは知りませんが、何かがあったのだと思い、「『やはり、亡くなられたのだろう』と諦める気持ち」になったのでした。》

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