【現代語訳】

 夜は更けてしまったが、このような機会に太后宮のいらっしゃる所を避けてお伺い申し上げなさらないのも思いやりがないので、帝が帰りにお立ち寄りになる。大臣もご一緒にお供なさる。大后はお喜びになって、ご面会なさる。

とてもたいそうお年を召されたご様子にも、故宮をお思い出し申されて、

「こんなに長生きされる方もいらっしゃるものを」と、残念にお思いになる。
「今はこのように年を取って何もかも忘れてしまっておりましたが、まことに畏れ多くもお越し戴きましたので、改めて昔の御代のことが思い出されます」とお泣きになる。
「しかるべき人々に先立たれて後、春になったことも知らないようでいましたが、今日は心慰めることができました。時々はお伺い致します」と帝が御挨拶申し上げあそばす。 

太政大臣もしかるべくご挨拶なさって、
「また改めてお伺い致しましょう」と、申し上げなさる。
 ゆっくりなさらずにお帰りあそばすご威勢につけても、大后は、やはりお胸が静まらず、
「どのように思い出しておられるのだろう。天下をお治めになるというご運勢は、押し消すことはできなかったのだ」と昔を後悔なさる。
 尚侍の君も、静かにふり返って御覧になると、忘れがたい事が多かった。今でも適当な機会に、何かの伝で密かに便りを差し上げなさることがあるのであろう。
 大后は帝に奏上なさることのある時々に、御下賜された年官や年爵や、何やかやにつけて、ご意向に添わない時には、「長生きをしてこんな酷い目に遭うとは」と、もう一度昔の御代に取り戻したく、いろいろとご機嫌が悪いのであった。
 年を取っていかれるにつれて意地の悪さも加わって、院ももてあまして、例えようもなくお思い申し上げていらっしゃるのだった。
 さて、大学の君はその日の漢詩を見事にお作りになって、進士におなりになる。長い年月修業した優れた者たちをお選びになったが、及第した人はわずかに三人だけであった。
 秋の司召に、五位に叙されて、侍従におなりになる。あの人のことを、忘れる時はないが、内大臣が厳しく監視申していらっしゃるのも恨めしいので、無理をしてまでもお目にかかることはなさらない。ただお手紙だけを適当な機会に差し上げて、お互いに気の毒なお仲である。

 

《帝は、帰りに大后を訪ねることにしました。朧月夜とともに朱雀院邸におられたのです。

帝が大后に会って最初に母・藤壺を思い出したというのは、意表を突く感じですが、先ほど読者に花宴を思い出させたのと会わせて、かつてのヒロインのうまい出し方です。『評釈』が「物語のフィナーレが刻々と近づいていることを感じさせる」と言います。

そしてこれまでの源氏の最大の敵役だった大后の登場です。

その源氏と、源氏の擁する瓜二つの帝とが揃って訪ねて来たのを迎える大后は、言葉は謙虚でも、気持は穏やかではありません。しかし、結局は「後悔なさる(原文・悔いおぼす)」しかなかったのだと、作者は源氏の勝利を確認します。

何か、彼ら自身、そういう意図で行ったのではないかとさえ思われますが、あくまでも作者の意図と考えておきましょう。私は、作者は源氏をそれほど政略的な、もっと言えば狡猾な人間に描こうとは思っていないように思うのです。

以下の尚侍の君の話と普段の大后の様子は、作者としては源氏を持ち上げる気持で書いたのでしょうが、二人の気品を貶めるだけで、無くもがなの話だと思います。これでは、肝心の源氏の気品まで、瀬踏みされてしまいかねません。格調高い相手と向き合ってこそ、主人公の格も上がろうというものなのですが…。

そして、この行幸の結びは夕霧です。まずその呼び名が冠者の君から大学の君に変わります。元服して時が経って、青年の扱いになったということでしょうか。そして、先の御前での漢詩のコンテストに見事に合格して「進士」に昇格したのでした。前に挙げたサイト「平安末の学制」によれば、擬文章生になってから、省試を受けるまでは、相当の学習期間を置くのがふつうだったそうで、「たとえば平安前半(10世紀初)の藤原在衡の場合、入学してから文章生になるのに足掛け六年を要している。大江匡衡(9521012)は足掛け九年である」と言いますが、夕霧の場合はわずかに一年あまりだったのでした。》

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